桜の季節になると写真を撮りに行きたくてそわそわしてしまいます。
今年の千鳥ヶ淵は自粛ムードでいつもと変わってしまうのでしょうか。
春はこうした儚くも胸を打つ「美」がいつにも増して身近にありますね。
こちらは数年前に僕が千鳥ヶ淵で撮った写真です。
以前、美をテーマにしたサロンのプロデュースにあたり、こんな文章を書きました。
人間以外の生物に、美を認識し語り愛でることのできる能力は確認されていません。
山を神々しく照らす朝日も、藍のグラデーション豊かな大海原も、
咲き誇る花々や跳躍のしなやかな動物たちも
この宇宙に溢れる色彩や音、形、光は、
源を辿れば美のために存在するわけではありません。
神により与えられた任を全うし、時間の中で機能を果たし、
最後まで淡々と生きていくためにあるものです。
それらに「美」というギフトを見出すのは、
人間という巨大な脳をもつ生物のみであるという事実に、僕は心震えます。
ある対象を見て、聞いて、触れて、感じ、それを「美しい」と認識し、
記憶する旧脳と新脳による対話から美は解釈、決定づけられますが、
時の中で美は水のように形を変え、与えられた称号は決して永遠ではありません。
美には様々な定義がありますが、その理屈付けは進化する新脳により作られた
臨時の”ルール”に過ぎず 理屈を取っ払えば、
美とはつまり「脳が悦ぶこと」そこに尽きるからです。
そして、人の数だけ、美には正解がある。
クリニックFを立ち上げ10年が経過しました。
ここでの診療で僕は一貫して「自己肯定」が美への最短の
近道であることを唱えてきました。
美が脳の中にしかない以上、自分以外の他人のようになることよりも、
自分をまず肯定する癖を脳につけ
自分にあるものを見つめなおしそこを伸ばすことの方が合理的だからです。
しかしながら、月日の中で医療だけではなかなか攻略できない領域も
認識せざるを得なくなってきました。
美しくありたい、美しくなりたい、美しいものが見たい、
という人間特有の欲望を、多角的にどう叶えていくのか。
自分の脳をいかに悦ばせ、美へとより近付くのか。
新しいプロジェクトではそこを考えていきたいと思います。