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BLOG 藤本幸弘オフィシャルブログ

日本においてベンチャービジネスが育ちにくい理由

大学院に入学した年より、4つのクリニックの経営に関わっているが、そもそもクリニック経営というものは、着眼点、それに対する対応のスピードの重要さなどを加味するといわば、ベンチャービジネスのようなものであるとおもう。日本においてはベンチャービジネスが育ちにくいと言われているが、それには文化、教育、そしてファイナンスの問題があると考えられる。

ベンチャー起業家の育成に必要なものは、第一に知識ではなく風土や文化である。日本文化は“他人と同じ行動を取らなければ死を意識しなければならない“しかしながら勤勉な農耕民族を起源とする。「和をもって尊しとなす」「武士道」「恥の文化」「出る杭は打たれる」「長いものには巻かれろ」日本人として耳慣れたこれらの言葉は、総じて保守的な国民性を象徴している。元来安定志向であり単一的な思考を好む日本の風土においては、異質な人間や考え方を拒む気質が強く、創造的なアイディアやビジネスは生まれにくいと考える。同じモノの考え方や同質の情報をいくら集めても、そこから創造的なアイディアやビジネスは生まれることは少ないからである。

ベンチャーに適していると言われている米国文化は一言で言えば、雑多な価値観の集合体である。多種多様の人種が激しく出入りし、結果、多くの情報が集まる。混じり合う意見や考えが異質であればあるほど、新しいアイディアやビジネス誕生の糸口に繋がる。“他人と同じ事をしていては生き残れない“狩猟民族を起源とし、個人主義が強い米国文化の特徴が強みになる点である。当然の帰結として、ベンチャーのように人と変わった着眼点をリスクに感じるのは、日本古来の文化に基づく側面にあると言えよう。このような国民性や文化を変えることは困難であるが、これを変える試金石となるのは、やはり今後の日本人教育であると考える。

第二に、日本教育の側面について考察する。“社会に埋もれたシーズとニーズを問題意識として切り取り、そのビジネスプランをインキュベートする。”それがベンチャービジネスに必要な能力だと私は考える。他人と違った価値観を持ち、与えられた情報に対して独自の切り口を見出せるかで勝負が決まるのである。しかし、残念ながら現代日本の教育ではこのような能力を鍛える場が殆ど無い。戦後、日本で教えこまれてきた教育は、得意な教科を伸ばす事よりも、苦手な教科を無くす事に重きを置かれた。さらに学校教育の頂点に位置する大学入試では、記憶を頼りに“答えのある”問題を解く能力が求められた。そのような能力の育成に主眼を置いた偏差値教育は、詰め込み主義や塾の隆盛を招き、偏差値の高い大学に合格するためのテクニックを教える場に成り下がった。日本教育の頂点を極めたエリート大学出身の官僚が、答えのない社会問題を解くのに難渋し、先送りを繰り返す様は、まさに現代教育の皮肉である。結果として、日本の教育は創造性を重視しない単一の価値観をもつ国民性を形成し、多様な個性を無視する社会の形成を招いた。これらは高度成長期に一定の価値観を持つ市場を作り上げ、そのプラットフォームに誰もが欲しがる商品を提供するという日本固有の強力なビジネスモデルを作り上げたが、21世紀となり、価値観が多様化してインターネットを中心として細かいレベルでのオーダーメードができる現在では、これらの日本型のモデルが利用しにくいと言える。また、日本の教育システムでは文系および理系の選択を迫られる時期が早いために、21世紀の文明国家である日本を代表する大学の文系の学生が、物理はニュートン力学の16世紀、化学は17世紀、一番新しい知識を教える生物でも、ワトソンクリックのDNAという60年も前の知識しか持たないことは、科学先進国を標榜する国としては、まさに心もとない。事象を多様な角度から分析する能力と知識を持つためには、文系理系に渡る、ダブルもしくはトリプルメジャードに渡る知識を持つ人間の育成が重要だと考える。

米国の大学には実践的な経営理論を教えるビジネススクールがたくさんあり、多くの学生が起業を志して巣立っていく。日本の大学でもようやくビジネススクールを開設する動きが本格化したが、学問上の知識は多くても、実際には経営の経験がない教授も多く、数や質の面で米国とは比較にならない。実際、卒業後ベンチャー企業に飛び込んでいく学生も残念ながら極めて稀であり、一流大学を一流の成績で出るような人物が選ぶのは、やはり官僚や一流企業が一般的である。第三に実際に起業するときに直面するファイナンスの問題が挙げられる。ファイナンスの問題で第一にあげられるのは、やはり企業にとっての血液とも言える「資金」の調達策であろう。どんなにアイディアが良くても、優秀な人材が数多くいても、事業化するためには資金こそがまず不可欠の大要素である。事実、多くのベンチャーは初期段階にこの金の問題にぶつかっている。冒険をしなければ飛躍はないというので、金が無くて事業を始める。資金がなければ銀行へ借金に行く。ところが、日本の銀行は銀行は必ず、リスクヘッジに土地・不動産を担保にとって金を貸付ける。欧米の銀行と異なって、資産のない、おまけに歴史も短いベンチャー事業に金を貸さない。しかしながら銀行はこの問題についてのみは、近年変わりつつある。担保の土地や不動産が無くても、経常利益を順調に増加させているベンチャーには金を貸すようになった。銀行もこのような会社が返済能力を持っていることにやっと気が付いて、評価基準が欧米型になりつつあり、土地本位制に、経常利益本位制を加えたといえる。

ベンチャー企業を資金面で支援するベンチャーキャピタルも、日米間で大きな隔たりがあるといえる。米国の場合は経営の現場に踏み込んで、助言したり、顧客を紹介したりと、様々な面でベンチャー企業の面倒を見るが、日本のベンチャーキャピタルは出資したベンチャー企業が株式を上場するのをひたすら待つだけ、というところが多い。米国の経営大学院の教授は、教え子のベンチャー企業立ち上げに際し、単なる助言だけでなく、資金提供に至るまでをサポートする。

さらに法的、社会的な問題もある。ストックオプション等に対する規制はようやく日本でもこの問題に手が付けられ始めているが、株式公開するための厳しい条件、そしてそれをクリアするために必要となる年数の長さ、一度大きな失敗をすると敗者復活が難しい失敗を許さない日本の社会、ビジネスがうまくいかないと私財をすべてつぎ込んで頑張る姿勢を見せないと許されない風土が大きなネックになっていると考える。反対に米国では会社借入金が弁済不可能となった場合でも、法律的に個人として責任を負う義務はない。さらに業務上、発生した損害賠償(取扱商品の事故・業務上の交通事故・PL法・使用者責任)が会社として弁済不可能となった場合でも、個人として責任を負う必要が無い。どんな良い商品を開発しても、必ず売れるとは限らない。ビジネスには失敗はつきものであり、敗者復活がたやすい社会環境はベンチャーには追い風になるはずである。

日本人の文化的側面はグローバル化した社会状況下で変化はすると思われるが、長期的には教育により変化させるしかないであろう。記憶勝負の教育システムから、学問の知識を広く浅くいわば共通言語を得るまでの記憶のとどめ、事象について考える教育に変化させる。他人に対して自分の価値観を押付けることは最もおろかなことであることを認識し、国内に多様な価値観を生み出し許容することを目標とした教育が必要である。


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