叩きすぎた石橋の向こう側
我々はいつからだろうか。
橋を叩くことが「美徳」だと教え込まれてきたのは。
慎重であれ。
失敗するな。
恥をかくな。
幼い頃から耳にたこができるほど言われてきた言葉だ。
けれど、叩きすぎた橋はいつしか渡れなくなる。
手のひらで叩き続けた石は欠け、亀裂が入り、やがて崩れ落ちる。
本来、橋は渡るためにあるのに。
叩くことが目的化した瞬間、人は挑戦することを忘れる。
人生には、どうしても叩いている時間すら許されない場面がある。
火事場で逃げるとき、突風で崖が崩れかけたとき、追いかけてくる運命から逃れるとき。
橋があるなら、渡るしかない。
叩いて確かめることよりも、渡った先に見える景色こそが人生を変える。
たとえ橋が壊れたとしても、その向こうに何があるかを知っている者と知らない者とでは、その後の生き方がまるで違う。
叩くのをやめたとき、人は橋を渡れる。
渡ったとき、人はようやく自分の足で立てる。
そして気づくのだ。
壊れるかどうかは問題ではない。
渡りたいかどうか、それが全てだったのだと。
だからなのだ。
子供もまた、小さい頃から「叩き方」ばかりを教え込まれてはいけない。
「落ちると危ないから、叩いてから渡りなさい」
「周りと違うことをすると恥ずかしいから、ちゃんと確かめなさい」
その言葉に愛がないわけではない。
けれど、叩くことだけを教えられた子供は、いつか橋を渡ることを忘れてしまう。
挑戦するより、正解を探すことを選ぶ。
走り出すより、転ばない方法を探す。
夢を見るより、失敗しない道を選ぶ。
そして気づけば、叩き続けるだけの人生になってしまう。
本当は子供こそ、橋を叩かずに駆けて渡れる存在なのに。
怖いものなどなく、転んでも笑って立ち上がれる存在なのに。
叱るよりも、守るよりも、
その小さな背中を押してやること。
「行っておいで」
その一言こそが、未来を渡る力になる。
叩くことを覚えるのは、大人になってからでいい。
子供にはまず、渡りきる勇気を与えたい。
橋を叩く人生ではなく、橋を渡る人生を。
そして渡ったその先にこそ、私たちの本当の物語が始まる。