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BLOG 藤本幸弘オフィシャルブログ

「神の使いと王の時代から、宗教と科学を経て、今はお金の時代か」

「神の使いと王の時代から、宗教と科学を経て、今はお金の時代か」

人類史を眺めるとき、我々は常に「何を至高と見なすか」という問いと向き合うことになる。

最初の時代は「神の時代」だった。

狩猟採集の時代、人は自然の全てに霊が宿ると信じた。森羅万象は神聖であり、雷鳴も病も死も、すべては神や精霊の意思だった。雨を祈り、獲物の霊を弔い、シャーマンが神託を告げる。そこには、まだ科学も合理もない。世界はただ聖なるものとしてあった。

やがて農耕が始まり、村は都市となり、都市は国家へと発展する。

ここで登場するのが「王の時代」だ。

メソポタミア、エジプト、インダス、中国──あらゆる古代文明で王は神の代理人とされた。エジプトのファラオは太陽神ラーの子であり、中国では天命を授かることで皇帝となった。王は神意を地上に体現する者、神の言葉を翻訳し秩序を維持する存在だった。宗教は王権を支えるために組織化され、神殿と宮殿が並び立つ文明世界が築かれた。

しかし、王の権威も永遠ではない。

古代末期から中世にかけて、価値の中心は「宗教」へと移る。
ローマ帝国が崩壊し、混乱の中で普遍宗教が人々の拠り所となった。西欧ではキリスト教会が絶対的権威を持ち、教皇は皇帝さえ屈服させた。中世とは、まさに神と教会の時代である。寺院と修道院は人々の生活の中心であり、祈りと儀式が日々を支配した。救済と来世への希望が最大の価値とされ、現世の営みはその手段にすぎなかった。

この宗教中心の世界を覆したのが、近代の「科学の時代」である。

ルネサンス、宗教改革、科学革命──啓蒙思想家たちは、理性と経験こそ真理の基準だと宣言した。ガリレオ、ニュートンは、神の奇跡ではなく数式で自然を説明した。ヴォルテールは「偏見を砕け」と叫び、カントは「理性の光による自己解放」を説いた。科学は神秘を剥ぎ取り、世界を法則として解体した。こうして、神と宗教が築いてきた形而上的世界像は崩れ、人間の理性と科学が世界を支配する時代が到来した。

では、今は何の時代か。

この問いの答えは、おそらく「お金の時代」なのだろう。

産業革命以降、資本主義は爆発的に成長した。労働と富の蓄積が善とされ、経済成長が国家の価値尺度となった。宗教改革で形成された禁欲的労働倫理は、やがてその宗教性を失い、純粋な利潤追求だけが残る。ウェーバーはこれを「鉄の檻」と呼び、もはや誰も神のために働かず、ただ経済的強制だけが人々を働かせると警告した。

現代では、貨幣が宗教のように人々の心を支配している。
ハラリは「お金は史上最も成功した宗教だ」と述べた。なぜなら、ドルも円もユーロも、それ自体には価値がない。人々が信じるからこそ、価値が生まれる。信用こそが貨幣の本質であり、それは宗教の信仰と何ら変わりない。

しかし、お金の時代も永遠ではない。

AIが知を、ロボットが労働を代替する未来には、お金という価値交換の仕組み自体が崩れるかもしれない。貨幣が消えるわけではないが、それが人間の最大の目的である時代は終わるだろう。資本主義は物質的飽和点に達しつつあり、人々は新たな価値体系を模索している。

次に来るのは何か。

宗教か、国家か、科学か、お金か──いや、どれでもないかもしれない。

共感や意味。人と人を繋げる無形の価値。自己実現や存在意義。
モノでもカネでもなく、あなたがそこにいる理由。

それを感じ合える世界が、新たな“至高”として人類史に刻まれる日が来るだろう。

人類は常に信じる対象を変えながら進んできた。

神の時代、王の時代、宗教の時代、科学の時代、そしてお金の時代。この先に待つ新たな時代は、どんな価値を“至高”とするのだろうか。


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