「美味しさ」の再定義──ある経営者の自己実験
経営者の友人が、食生活を大きく変えたという話を聞いた。
彼は、長年続けていた小麦粉、砂糖、植物性油を含む食品の摂取を、ある時期から一切やめたのだという。そして、その理由を次のように語っていた。
「“美味しい”という感覚は、本質的には中毒症状の一種ではないか。
“お腹が空いた”という感覚も、実は禁断症状に過ぎないのではないかと考えるようになった。」
この思いつきにも似た仮説を出発点に、彼は自らの身体を実験台とし、食事内容を抜本的に見直した。
彼が避けたのは、いずれも現代の加工食品に多用され、食欲や快楽中枢を強く刺激するとされる素材である。小麦、精製糖、そして一部の植物性油。彼はそれらが、味覚ではなく“脳”に働きかけて、無自覚のうちに過剰摂取を誘発しているのではないかと感じたという。
その食生活を一年半続けた結果、身体に明確な変化が現れた。代謝のリズムが整い、空腹感の質が変化し、何より「太らない身体」を取り戻したという。本人の言葉を借りれば「子供の頃の身体に戻ったような感覚」だという。
この話を聞いて私が興味深く感じたのは、彼がその背景に「植物の戦略」を見出していた点である。
植物は動けず、牙もなく、毒を持たぬ種もある。そうした中で、何万年もの間捕食され続けながらも種をつないできた。ならば、植物が“味”という手段を用いて、捕食者である動物に対して何らかの報復や誘導をしていたとしても不思議ではない、というのが彼の着想であった。
すなわち、甘味や香り、油との組み合わせによる強烈な「快」の体験そのものが、植物が仕掛けた“依存性の罠”なのではないかという見立てである。
このような考察は、いささか極端にも見えるかもしれない。だが、実際に身体で体感した結果に裏打ちされているだけに、単なる思いつきとして片付けることはできない。
“美味しい”という言葉の裏に潜む構造を見直すこと。
それは現代の食文化に対する静かな反証であり、同時に、私たちの「選ぶ自由」のあり方を問う試みでもあるのだろう。
おわりに──「美味しい」の解毒
現代の「美味しい」は、必ずしも身体に良いとは限らない。
むしろ、報酬中枢を騙すように作られた、精緻な化学兵器のように感じることさえある。
それでも人は食べる。そして中毒になる。
だが、そこから一歩引いて観察し、「本当の意味での味覚の自由」を取り戻せたとき、身体もまた自然と整っていく。
もしかすると、それは400万年以上の歴史を持つ、人間と植物との静かな対話なのかもしれない。