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BLOG 藤本幸弘オフィシャルブログ

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クロアチアヨーロッパ皮膚科学会・発表演題

この日は、今回の学会でのレーザーセッションのディスカッションに参加しました。

クロアチアのホテルのホールに椅子を並べた、長細い、こんな会場になりましたが、

前回のブログで話した通り、レーザーの講演としては初歩的な話が多くて、ちょっと残念でしたね。

レーザーライトの拡散の話や、

なぜ長い波長の方が肌の中に浸達するのか、

レーザーと光治療機(IPL)の性質の違いなどの、基本的な光治療器の話題を、工学部の先生がまず話されたました。

ざっとどんな話がされたのか、おさらいすると、

肝斑(melasma)のセッションもありました。

こちらは色素斑のレーザー治療の適応と禁忌の話題でした。

ドイツの施設での血管(ヘモグロビン)病変についての発表は興味深いものでした。

子供の血管腫のレーザーによる治療成績も発表されていました。血管病変は本当に治療が難しいのです。生後、ここまでの状態の子供が、ほとんど気にならないようになってしまうなんて、医学の素晴らしい進歩が見られる分野のひとつですよね。

こちらは古の発表された先生の、血管腫の治療のプロトコール。

乾癬のレーザーによる治療の話なども話題としてありました。

こちらは唯一フラクショナル・レーザー治療について講演した先生のプレゼンです。

フラクショナルレーザー機器ができる前、にきび痕や毛穴の肌の治療は、肌の全体をCO2などのレーザーでフルリサーフェシングする、このような治療が主流だったのです。

通常の生活が出来るようになるまでに、数ヶ月かかりました。

しかも、アジア人にこの手の治療を行うと、長期間にわたって色素沈着が取れない状態が続きます。

現在のフラクセルに代表されるフラクショナルリサーフェシング治療ですと、数日顔が赤くなるぐらいで、通常に生活ができるわけですから、本当に技術進化を感じますね。

さまざまなディスカッションに加わったのち、クロアチアでのヨーロッパ皮膚科学会の参加証を手にして学会会場を後にしました。


クロアチア・ヨーロッパ皮膚科学会会場

さて、またしばし5月中旬に訪れたイギリス・クロアチア出張記に戻ります。

今回クロアチアのツァヴタット(CAVTAT)で開催されたヨーロッパ皮膚科学会ですが、会場となったホテルクロアチア全館をこの学会のために使用したような設営となっていました。

会場は総じて込んでいましたね。講演時間の合間には、いろいろな先生方が雑談しています。

レーザー会社でブースを出しているのはあまりありませんでしたが、米国のキュテラ社とパロマ社のブースがありました。

残念ながら、僕の知り合いの担当者はいませんでしたね。

様々なブースがありましたが、人気のあるなしがはっきりしていましたよ。


シンガポールでの招待講演の案内状

国際学会周遊記では、まだクロアチアの学会中ですが、明日朝から今月3カ国目の国際出張であるシンガポールに出発し、フラクセル3DUALとサーマクールCPTの招待講演に行きます。

その時に配布される原稿が、昨日送られて来ました。

プレゼンをする医師として、自分の名前がトップに入ったハンドアウトです。

プレッシャーですが、日本の医師の代表ですから頑張ってきますね。

ネットの接続状況が良ければあちらでもブログをアップします。


ドブロブニクへ

ツァヴタット(CAVTAT)の港を歩いていると、こんな看板が。

よく読むと、ドブロブニク行の船ツアーなのです。幾つかのツアーを物色して一つの会社を選ぶことにしました。

港で待つと、いくつも船がやってきます。

僕はこの船を選択し、ドブロブニクまでの約1時間の船旅に行くことにしました。

こんな景色が続く中、ドブロブニクの街を囲む城壁が見えてきましたよ。

ドブロブニクの街並みの写真ですが、どの場所もとても絵になるフォトジェニックな場所なのです。

 

現在でこそ、こんなに観光客が集まる平和な町ですが、ドブロブニクの街は、クロアチアの飛び地で、元ユーゴスラビアの一部でした。

僕は大学受験の時に、好きだった世界史と地理を選択したのですが、

地理の先生が、ユーゴスラビアは

「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」

を持つ、きわめて複雑な国家だと話していたのをよく思い出します。

もともとこのバルカン半島という土地は、長い歴史上でもスーパーパワーが常に小競り合いをする土地。

第一次世界大戦の勃発のきっかけとなった650年も続いたハプスブルグ家の末裔で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であったフランツ・フェルナンド大公がこのすぐ横にあるサラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)で暗殺されたことに端を発しますよね。

ソ連の崩壊によって始まった、ユーゴスラビア連邦の分離独立戦争であった、

クロアチア内紛は、1990年から始まりました。

1991年にクロアチアが独立を宣言するも、結局1995年の終結まで泥沼の戦場となり、大量の死者と難民を出しました。

わずか15年前の話です。歴史は常に動いているのを感じますね。

この旧ドブロブニックの城壁を出ると、横にはFort Lovrijenacという砦があるのです。

城壁を振り返るとクロアチアの旗が見えます。

以前はこちらには来なかったのですが、今回は砦まで山登りすることにしました。

こんな海沿いの道を登ってゆきます。

砦の中に入り、入場料を支払って、中の暗い階段を登ること数分。

目の前にいきなり、こんな景色が飛び込んできました。

この砦は、地元の人によると、「アドリア海の真珠」ドブロブニクが、最も美しく見渡せる所だったのですよ。

 


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