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BLOG 藤本幸弘オフィシャルブログ

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ハ-バード・マフィア Les Misérables レ・ミゼラブルの魅力

おはようございます。

今日1月18日(金)はクリニックFの診療日です。

診療のほか、今日は午前中から欧米のレーザー機器メーカー3社がそれぞれに来院し、打ち合わせをすることになっています。

リーマンショックの痛手を受け、研究開発費が減ったアメリカのレーザー機器メーカーと比較すると、ここ数年欧州は規模こそアメリカに比べて小さいものの、よい機器を作り出しています。

新たな医療/美容機器は、年間実に100台近くもが世界各地でデビューします。

これらのデビュー・発表の場となるのが、毎年丁度これからの時期に開催される二つの学会・・・米国皮膚科学会(AAD)と米国レーザー医学会(ASLMS)です。

AADは今年は3月に開催され、ASLMSは4月に開催されることが決まっています。

僕はどちらも毎年参加していますが、学会会場展示場を回っていると本当に大量の機器が展示されるんですよね。この中からその年何を選択すべきか。それぞれの担当者に注意深く話を聞き、どのレーザー機器を購入するかいつも熟慮します。

数千万もする機器を購入するのは、個人でクリニックを運営する側にとってかなりのリスクを背負い込むことになりますので、一台たりとも誤った機器を購入するわけにはいかないのです。

一見新しい機器であっても、技術そのものがいわゆる二番煎じやコピーの廉価版であったり、一見良さそうに見えるものであっても自分の医学的知識に照らし合わせるとどうも腑に落ちなかったりするものも多い。

こうした時に役立つのは、これまでの臨床経験とそれに伴う勘ももちろん大切ですが、どの技術者(工学博士)が設計をしたか? ということをチェックすることで大きな指針を得ることが出来ます。

狭い業界ですので、知り合いも多いですし、

「彼が設計したのなら大丈夫だろう、間違いないだろう」

という技術者がこの業界には何人かいます。

その上で、欧米の医師で実際治験に関わった医師を探すのです。

時に僕も欧米の機器の、特にアジア人用のパラメータを決定するような治験に関わる仕事をしますので、楽屋裏はよくわかっています。

この時に気を付けなければならないのは、機器の宣伝に出ている医師に聞かないこと。

米国のレーザー医師たちは、ハーバード大学のロックス・アンダソン教授の元で研鑽を積んだ医師が多いのですが、その出身者の中には、特定のレーザー企業の株主であったり、企業側から与えられた企業寄りのプレゼンをそのまま話す有名医師も存在します。

内輪ではレーザー会社の利権を利用する彼らを、「ハーバード・マフィア」と名付けていたりするんですよ(笑)。

ここはよく人物を見極めなければなりません。

ハーバード・マフィアの口車に乗らず、真摯に機器を評価し、本音で語ることのできる友人をこの業界に持っていることが極めて大切なのですよね。

新しい科学技術は、すべてが情報戦とも言えるのです。

そして、最先端の機器も組織も、生かす殺すは人次第。それらの価値も未来も、結局関わる「人」によって決まるものなのです。

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話は変わりますが、先日トム・フーパー監督の映画「レ・ミゼラブル」をやっと観てきました。

僕はミュージカルの話をよくブログで書きますが、「レ・ミゼ」といえば、大好きな「オペラ座の怪人」とともに世界で最も有名で、愛されるミュージカルのひとつであると言えるかと思います。

NY公演はずいぶん前に終わってしまいましたが、ロンドンに滞在するたび機会があれば観ています。

とはいえ、実は僕自身クロード・ミシェル・シェーンベルグ作曲によるレミゼの音楽は大好きなのですが、ミュージカル自体は何度観てもあまり思い入れをもつことができずに来ました。

たぶん原作のヴィクトル・ユゴー作「ああ無情」に対しての思い入れが強すぎるのだと思います。

映画版のパンフレットを手に、スタッフと冗談を言いながら話していた時に撮った写真。

ちょっと笑いすぎですね(笑)。

さて、重複しますが、僕にとってミュージカル「レ・ミゼラブル」はなんといっても使用される音楽の素晴らしさに尽きると思っています。

特に、4人それぞれ意味のあるセリフを言わせながら歌わせる4重奏は、秀逸ですよね。歌が無ければあの短い時間に、4人の交錯した感情を込めることは難しいでしょう。

ああして舞台を展開することができるのは、オペラをもとに発展したミュージカルという舞台の魅力のひとつと言えるかと思います。

ミュージカル「レ・ミゼラブル」自体も1980年のパリデビューから30年余りの歳月の中で様々なことがあり、すこしづつ構想が変わり、練られてきましたので、そもそもこのミュージカル自体がすでに完成の域に達していると言われています。

そんな完璧なミュージカルを母体とした映画。どんな作品になっているのだろう、と思いながら席に着いたのですが・・・

個人的な結論としては、この映画はミュージカルの限界を超えたのではないかと思ってしまいました。

ミュージカルと比較して云々という話ではなく、ヴィクトル・ユゴーの壮大な大河ドラマを投影する、受け止める“器”として、ハリウッド映画というスケールがぴったりだと感じたのです。

もちろん、ミュージカルがなかったならば、「レ・ミゼ」の映画化にシェーンベルグの音楽もなかったことになりますし、構成も変わってきたことでしょう。

何度も何度も推敲され世界で愛されてきたミュージカルあってこその映画である、という前提があり、その上で、映画館のスクリーンいっぱいに広がる映像の強さ、音響、CG加工、編集の妙、圧巻のエキストラ。

それらを引っ張るジャン・バルジャン役のヒュー・ジャックマン、さらに追い詰めるジャベール役のラッセル・クロウ。脇を固める重厚な俳優陣・・・まさに完璧なキャスティングともいえる配役なのです。

ファンティーヌ役のアン・ハサウェイも、情感こもった素晴らしい歌を披露してくれました。

彼女の母親は全米公演の時に女工役で出演していて、ツアーではファンティーヌ役をやったのだとか。

子供の頃から慣れ親しんだミュージカルだったのですね。

そして僕にとっては「マンマ・ミーア」の印象が強い、アマンダ・セイフライドのコゼット。マリウスのエディ・レッドメインや、エポニーヌのサマンサ・バークスも印象的でした。

テナルディエ夫婦も笑ってしまいましたね。

本当に見事でした。

ちょうど25周年の特別コンサートのブルーレイも購入し年末に観たばかり。値段も安くなってきました。

このブルーレイはコンサート形式なのですが、ほぼミュージカルを追体験できる様になっています。

さらにこのディスクには、ミュージカルの過去の役者が出て皆で歌うボーナストラックがあるのですが、ミュージカルの初演でジャンバルジャン役を演じたコルム・ウィルキンソンが、この映画ではミリエル司教を演じているのですよね。

これに気づいた時には感動しました。

ミュージカル、映画共に改めてキャメロン・マッキントッシュの偉大さを噛み締めましたよ。

映画はとにかくお薦め、ブルーレイも機会があったら観てみてください。

 


医工学部が必要な時代へ その② 医学博士、工学博士の取得へ 

その①より続く

医師免許取得時に初めて

「既存の科に、自分の行きたい診療科や研究科がない」

ということに気づいても、現実はそんなことを言っている場合ではありません。

時間的猶予もありません。

とにもかくにもまずは祖父の生き方を辿るべく、彼が行っていたペインコントロールの専門を診療と研究対象にしたいと思い、痛みの専門家である麻酔科を選択。

結局麻酔科で5年目に麻酔専門医を取得しましたが、進路の選択が果たして正しかったのかどうか、いつも悩んでいました。

とはいえ、一度自分で決めた道なので、専門医を取得するところまで突き詰めることがまず先決。

それがなされなければ転科はしないと考えていました。

そんなとき大学病院の外来で、ペインコントロールに使用していた低出力レーザー機器を思い出したのです。

そうだ、自分は幼少の頃より顕微鏡やカメラなどの光学機器や機械がなにより好きだった。

いつか理系の研究者になりたいと思っていたのだったっけ・・・という、小さい頃の夢を思い出したのです。

そして、医師免許を生かして理系(工学)の研究に携わることもひょっとしたら可能なのではないか、と考えるようになりました。

米国の場合、メディカルスクールに進学するためには他の科の大学を卒業し、学士を持たなければなりません。

医学生の中には、工学部を卒業した人も多く、こうした環境から米国では医学にも工学にも詳しい人間が、機器開発に携わることができるのです。

しかしながら、同じ理系に分類される医学と工学は似たようで非なるもの。

日本では二つの分野にまたがった専門家は数えるほどしかいません。

医学と工学に長けた専門家は、人工心臓(心臓ペースメーカーを含む)を作る分野か、重量子線治療を含めた放射線医学を扱う分野か、レーザー医療に携わる分野に属する限られた人間です。

これからの医療現場には、もっともっと高性能機器が登場する時代が来るに違いない、そうであればそうした機器を扱って治療にあたる医師ももっと必要になるはずという確信も、僕の背中を押しました。

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僕は理学系研究の中でも特に工学(光学)に興味がありました。

そうなるとやはり光学機器の英知を結集したレーザー機器を専門にしたい。

レーザーはアインシュタインにより1920年代に発表された、「誘導放出の研究」により理論を提案されて80年。

さらにメイマン博士によりルビーレーザー機器がつくられたのが1960年。

自然界には存在しない人知が作り出したコヒレントな光。

まだまだ工学的にも新しい分野です。

レーザーが医療に応用されている局面は沢山あります。

古くはレーザーメスを主体とした外科領域、皮膚科・形成外科領域、泌尿器科領域、歯科領域、眼科領域さらには痛みの治療。

レーザーの医学応用には、診断領域と治療領域の二つの利用方法があります。臨床治療応用では、やはり皮膚科・形成外科領域での応用が最も多い。

医師となって6年目に大学院医学博士課程に進学。4年間の在学中に、自分の生活のために青山外苑前、六本木、そして表参道にレーザークリニックを開業しました。

これら3つのクリニックは、大学院修了後に東京大学医科学研究所で、大学職員(助手)になる前に、経営権を譲渡売却しました。国家公務員は兼業は出来ませんでしたので。

大学院医学系研究科では皮下の免疫細胞の司令塔であるマストセルを研究テーマにしました。

皮膚・免疫系の勉強を研究者の立場から勉強し直すことができたのは、今の自分のキャリアに生きていると思います。

僕の医学博士号の主査は、東京大学皮膚科の前教授の玉置邦彦先生にお願いしました。

玉置教授は素晴らしい人格者でした。

2010年に急逝されたときには大変驚き、もっと様々なことを教えて頂きたかった、もっとお会いしたかったと悔やまれました。

レーザー臨床では米国レーザー医学会やヨーロッパ皮膚科学会、米国皮膚科学会に所属し、世界に人脈をつくるために、毎年学会発表をするようにしました。

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僕はレーザーを利用する治療科を専門とする様になり、今年で14年目です。

英語による国際学会発表や招待講演も約90回行いましたので、そろそろ目標としていた100回という数字が見えてきました。

もともと新たな分野を学ぶことが好きなので、医療経営に興味を持ち経営学修士号(MBA)の学位を取ったり、フライングドクターを目指してセスナ機の免許を取得し、航空力学を勉強したりしたこともありました。

しかしながら、齢40にして思い立って工学部大学院を社会人受験。

当初アメリカの大学で取得の準備をしたのですが、アプローチしたどの大学も、工学部修士課程からしか入学が認められなかったのです。さすがに日本で医業をしながら修士・博士の5年間は離れられません。

人の縁を通じて、僕の今までのキャリアから判断していただき、工学部博士課程から入学できる大学を探したのです。

この3年間工学部博士課程に在籍し、工学博士号の取得がが本年中に見えるようになり、工学的な研究アプローチがわかるようになって、初めてぼんやりとしか見えてなかった輪郭がくっきりと見えてきました。

僕は医学部工学科もしくは、工学部医学科を専門にしたかったのだ、ということがようやくわかってきたのです。

医療の発展には、それ以前にその分野の工学の発達が不可欠です。

新たな機器が出来ることによって診断・治療能力が上がり、新たな治療が広がるのです。

しかしながら、同じ理系でも、医学と工学は研究アプローチがかなり違います。

臨床医として医学に携わる以上、医師の免許は必要です。

僕はどこかの大学で「医工学部」をつくる企画があったら、是非とも合流して仕事をしてゆきたいですね。

医師として医師国家資格を持つために勉強する学部と、医学にかかわった工学の学位を取るための学部。

もしくは工学博士などの理系の学位を持った人たちに、より短期間に医師免許を取得していただく勉強をしてもらう学部。

世界の200余の国や経済地域の基幹産業の中で、基軸となる1位から3位までの間に医療分野が含まれない国は本当にわずかです。

逆に医工学は、世界がこれから高齢化社会を迎えるにつれ最もニーズがある分野であるとも言えます。

もともと高い工業技術を持ち、世界の中でいち早く高齢者会を迎える日本の強みを生かすことが出来ると思うのです。

今後も、医学工学にまたがるレーザー研究を続けてゆきたいと思います。

 


医工学部が必要な時代へ その① 医者になったはいいけれど

おはようございます。

今日1月16日(水)はクリニックFの診療日です。

雪が降った後、一段と冷え込みましたね。都心も渋滞はだいぶ解除されたものの、路面に氷が残っているところも多々あります。引き続き気をつけてください。

さて、今日のブログは、少々真面目なお話。

医工学部という新しい学部の提案です。

書いているうちにちょっと長くなってしまったので、二回に分けてアップしますね。

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僕が現在研究の対象としているレーザー・アンチエイジングは、「美容皮膚科」という大きな枠組みの中にあるひとつの専門分野であると言えるかと思います。

2013年の段階で美容皮膚科に携わる医師は、圧倒的に皮膚科医か形成外科医(もしくは美容外科医)が多いと言っていいでしょう。

皮膚の専門家が治療の延長として美を追求すべく、ピーリングや注入剤、レーザー・光治療器を扱ったり、外科の特殊分野である形成外科医や美容外科医が造形に携わり、メスによって美を追求する延長で、肌を美しくするレーザー・光治療を扱ったり、その他の施術を行うわけです。

そんな中で、僕はといえば米国(AAD)や欧州(EADV)では皮膚科学会の会員ですし、日本では日本形成外科学会の学会員となっていますが、あくまでそれらはレーザー治療が前提にあり、その治療症例を報告するために所属しています。

すなわち、厳密に僕はそのどちらにも属していません。

意識の中では、自分は皮膚科医でも形成外科医でも、ましてや美容外科医でもないのです。

自分のバックグラウンドとして現段階で最もしっくりくるものは、米国レーザー医学会(ASLMS)専門医かもしれません。

そのため、日本の学会では少々変わり者扱いされることも、しばしば? です(笑)。

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僕の母方の祖父は明治生まれの皮膚科医で、昭和の初めに医学博士号を取得した人でした。

知的好奇心や研究心が旺盛で、若い頃は研究者としても多くの功績を残しました。

祖父の医師としての人生の一部は、祖父の死後、テレビ朝日系列の鳥越俊太郎さんの「ザ・スクープ」で取り上げられたこともあります。

晩年は静岡県三島市で医院を開業していました。

初島近くの沖で海水を採取し、医院で抽出して、オリジナルの神経痛に対する痛み止めの注射薬を作っていた時期もあると、クリニックを手伝っていた母に聞きました。

現在でいうペインクリニック診療という、痛み治療の先駆けのような感じの治療でしょうか。

そんな祖父をもつ僕でしたが、僕自身は初めから医師を目指したわけではありませんでした。

以前に書いたことがありますが、目指さなかった一つの理由は、名医の誉れ高かった祖父が、これからはもう医者の時代ではないと5人の子供を誰一人として医者にしなかったこと。

これからは医者に教える人になりなさいと、理学系や薬学系の研究者にしたのです。

昭和の初めにこの考え方が正しかったのかわかりませんが、その後医学が理学や薬学の発展のおかげで飛躍的に進歩したのは事実です。

また、昭和の初めに比較すると、医療訴訟なども増え、医師が暮らしにくくなりました。

僕が高校3年生の時に祖父が亡くなり、一族に医者が誰もいなくなります。

その後に初めて大学受験を迎えた孫が僕でした。

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一方僕は高校生の時には外交官に憧れて、もともと理系が得意だったのに、受験のために文転。東大法学部を受験して、結果、見事に落ちました。

そのため、すべり止めとしていた慶應義塾大学経済学部に入学し一度は籍を置きましたが、結局自分の進路を改めてそこで考え直すことになります。

外交官となる夢に遠くなった今、では自分はどんなことを大学で学び、卒業後どんな仕事に就くべきなのかということを考えざるを得なくなったわけです。

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悩みに悩んだ僕は、文系よりは元々好きで得意だった理系を、理系の中でも祖父の跡を・・・と考え、他大学の医学部を再受験して医師の道を選択することになります。

医師といっても、様々な専門の医師がいることをこの段階で漠然と理解していましたが、とはいえ自分自身はどういった専門の医師になるのかといったことは、正直この段階でまだ考えていませんでした。

医学生の時は、自分は外科系の医師になるのだろうという漠然とした思いはありましたが、国家試験までに6年間もあるので、とにもかくにもまずは医師免許を取得することが先。その後臨床実習までの期間に専門を決めれば良いだろうと思っていたのです。

読書が好きだったのもあって、医療を扱った小説や本も本当に沢山読みました。

中でも、 A.J.クローニンの「城砦」は記憶に残りましたね。

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そうして無事国家試験に合格し、医師免許を取得する歳になって、はて、と気づくことになるのです。

いくら考えても、既存の科に自分の行きたい診療科や研究科がない、ということに(苦笑)。

医師の仕事とは、人間の生命という大きなテーマに対し、自分の何を捧げ、どう役に立つかということに尽きるかと思います。

人間の生命とは、他の生命体とは違って体と心の両方によって維持されます。

時に、体と心のどちらもが、医師の力量によって寿命が左右される場合もあるのです。

基礎研究で役に立つのか、それとも臨床で役に立つのか。

自分の特性の中で、一体どこの何を使えば良い医師となれるものなのか。

自分でなければできない仕事とは、専門とは、いったいなんなのだろう?

20代半ばのまだ若き、社会経験の乏しい青年であった僕は、ここでまったく途方に暮れてしまったのです。

その②に続く

 


雪景色の東京 八ヶ岳のスキー 12時間の渋滞

おはようございます。

今日は1月15日(火)。クリニックFの診療日です。

関東一円雪景色でしたが、みなさんはどうお過ごしになりましたか?

 

僕はといえば、三連休の初日は土曜日でクリニックの診療日。月曜日にはいくつか打ち合わせが予定されており、中日の日曜日だけお休みを頂き、スキーに行ってきました。

実は学生時代、競技スキー部に所属していました。卒業後は仕事に集中していたのもあって10年ぐらいブランクがありましたが、ここ数年で再度スキー復帰したのです。

カービングスキーが出てきたおかげで、驚くほど楽にスキーができるようになりましたね。

スキーなのかスノーボードなのか、選択は迷うところですが、僕自身はスノーボードは避けるようにしています。

医学生の時八方のスキー場にある救護室でバイトしていた時、何人も怪我人を見てきました。スキーの怪我は足の骨折ぐらいで済みますが、ボードの場合は手を折ったり頭を打ったりとひどい怪我も多かったので、翌日以降の仕事を考えるとなかなか手が出ないのです。

医師の仕事は手を折ってしまうとできませんので(笑)。

日曜日は朝7時に都内を出発。

中央道で、富士見パノラマというスキー場に到着。都心から約90分ほどで到着したでしょうか。

八ヶ岳が綺麗に見えて、しかも空いているところが、気に入っています。

富士見パノラマという言葉通り、富士山もこの通り望むことができます。

素晴らしいスキー日和で堪能し、この日はその後プールや温泉も楽しんだ後一泊し、翌日早朝に出発するはずだったのですが・・・

早朝目覚めてみれば、辺り一面真っ白の大雪。

車もフロントガラスはなんとか掃除しましたが、この通りです。

都内も大変な状況になりそうだということで、予定されていた打ち合わせも双方賛成で後日に延期となってしまいます。

さて、どうしようか・・・としばらく様子を見ていましたが、あまり良い兆候が見られず午前中の間に現地を出発することに決めました。

このような状態で車を走らせるのは学生の時以来です。

中央道は早々に閉鎖されてしまい、20号線で甲府へ。

ところが、勝沼から大月に抜ける山道で、1時間余り全く前も後ろも動かない大渋滞に。

たぶん事故によるものでしょう。

やむなくUターンして富士山横の河口湖、山中湖を通過するルートに変更します。

たいてい雪道の場合、ノーマルタイヤで出てしまった車が止まってしまうことで渋滞になりますので、富士山横の道だったらそれなりにタイヤを用意した車が走るだろうと読んだのです。

読み通り、富士山の横を超え、御殿場に向かうまでは順調でした。

途中山中湖や河口湖で、もう一泊宿をとってしまおうか・・・という誘惑に負けそうにもなりましたが(笑)なんとか打ち勝ってそのまま進みます。

ところが、御殿場からの渋滞が予想を超えたものでした。

途中平塚から一般道を使い、横浜新道を利用しましたが、第三京浜は雪で閉鎖。さらに首都高もとっくに雪がやんでいるのに閉鎖したまま。

渋滞情報を見るための頼みのiphoneも接続が悪いですし、しまいには電池が切れてしまいました。

途中、車の事故を20台以上見たでしょうか。

なんとか自宅に辿りついたのは夜中の2時ですから、走行時間のみでも12時間ほどハンドルを握っていたことになります。

久しぶりに精魂果て、崩れ落ちるように眠ってしまいました。

ぐっすり眠ったせいか、おかげで今日は朝から元気に診療に入っていますが、ご予約いただいている患者さんの中には、まだまだ大変な状況の方もおいでになるかもしれません。

どうぞ無理をなさらないように。皆さんのご無事を祈っています。

 


■イタリア出張2012秋 ㉞ イタリアからの帰国 空港トラブル マルペンサ アルプス山脈

いよいよ旅の最後です。

翌朝は朝4時に起きて、最初の空港バスで出発です。

空港の稼働時間に合わせて朝4時から運行しているのは立派ですね。

以前はミラノ・マルペンサ空港から成田までのダイレクト便があったのですが、数年前に無くなってしまいました。

今回はパリトランジット。

朝の7時にパリ行きの飛行機に乗らなければなりません。

マルペンサまでは車で50分以上かかります。早朝の出発なので、バスの時刻表も見に行きました。

朝4時半に乗ることに決定。

翌朝バスに乗り込み、さて一安心。

50分バスに揺られて出発1時間半前に、マルペンサ空港に到着したのです。

以前も来た空港ですので、安心していたのですが、1週間前に来た空港とはちょっと雰囲気が違います。

???

出発ターミナルに到着し、タイムテーブルを見てみると、なんとパリ行の飛行機がありません!

その瞬間に、もしかしたら空港が違うのではないかと気づき、到着ターミナルのロビーに走りました。

走りながらチケットを見てみたところ、やはりミラノ・リナーテ空港と書いてあるではないですか。

ミラノは何度も来ていますが、マルペンサ以外の空港に行ったことがなかったのです。

思い込みとは恐ろしいもの。

出発便まであと1時間半もありません。リナーテ~マルペンサ間は70kmぐらい離れています。

万事休す。しかし、間に合わないわけにはいきません。

明日の外来は予約で一杯です。帰国後成田からすぐにクリニックに向かい、たくさんの患者さんを診なければなりません。

一台だけ待っていたタクシーをうまくつかまえて、運転手に相談したところ、早朝なので道も空いてるしなんとかなるかもしれないから乗りなさいと言われ乗り込みます。

さすが、ここはイタリア。小型タクシーを時速170kmで高速道路を飛ばしてくれたのです。

なんと35分でリナーテ空港に到着し、無事にチェックインすることができました。

もちろんですが、チップをはずみましたよ(笑)。

ミラノの地で、生まれて初めて国際線の空港を間違えるという大失態(苦笑)をしでかしましたが、今回は強運でなんとか事なきを得ました。

ミラノ・リナーテから飛び立ったエールフランス。

雪化粧が美しく施されたアルプス上空超えていきます。

陽が昇ってきました。

本当に心が洗われるように、雄大ですね。

2012年11月に滞在した、新国際学会周遊記イタリア出張記を、この号で終わりますね。

 


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