寒冷化のよる飢饉は、歴史にどの様な影響を与えてきたか?
科学の世界では、因果関係と相関関係を常に調べます。
現在は地球温暖化ばかりがフォーカスされますが、日本の歴史上では気候寒冷期や火山噴火などの冷夏や日照時間の減少飢饉が、多くの歴史的政変や戦争を引き起こしていることが当然予想できます。
気候変動が起こる事で民族が移動して、各地で戦闘が起こる。世界史でも、ゲルマン民族の大移動(4~6世紀)、ヴァイキングの拡張(8~11世紀)、匈奴やモンゴル民族の移動(4世紀~13世紀)なども気候変動がきっかけでした。
一方で温暖期には安定した政権が維持できます。平安時代の建物をみると、風通しが良く、スカスカですよね。感染症などを防ぐ効果もあったでしょうが、現在と同じぐらい温暖な気候で、食物も取れて、争いが起こらなかったのではないでしょうか?
日本の時代毎の戦乱と気候変動を、生成AIを使って関連分析にかけてみようと思います。

縄文・弥生時代: 戦争の出現と気候の背景
縄文時代は主に狩猟採集社会で、大規模な戦争の痕跡はほとんど見られません。集落間で争いが全く無かったわけではありませんが、縄文社会には守るべき大量の蓄えや富がなく、戦争の経済的動機が乏しかったと考えられます。弥生時代になると水田稲作が広まり、生産物の蓄積や人口増加により資源(農地や水)を巡る対立が生じました。集落は堀や柵で防備を固め、縄文には見られなかった戦争の時代に突入したのです。
実際、中国の『魏志倭人伝』には2世紀末から3世紀にかけて「倭国大いに乱れる」との記述があり、この頃に日本各地で戦乱が頻発した状態を指すと解釈されています。縄文後期から弥生への移行期には気候変動も指摘されており、海面低下や冷涼化による環境の変化が生業転換(稲作導入)や社会変動を促した可能性があります。しかし弥生時代の戦争発生の主因はあくまで稲作開始による富の発生とそれを守る必要性にあったとされます。
古代~平安前期: 気候安定期と統治体制の変化
古代(飛鳥~奈良時代)から平安前期にかけて、日本列島の気候は相対的に安定していたと考えられ、大規模な冷害や飢饉の記録は多くありません。この時期の戦乱は、皇位継承や豪族間の権力争いによるものが中心でした(例:672年の壬申の乱など)。気候要因との直接的な関連は確認しづらいものの、平安中期になると気候変動が社会に影響を及ぼす事例が見られます。10世紀(平安中期)は気温こそ温暖でしたが極端な少雨傾向で、大旱魃により多くの古代集落が消滅しました。この深刻な農業危機に対し、中央政府は律令制から荘園制への転換を進め、地方統治を担う国司に権限を与えて農地再開発を奨励するなどの政策変更で乗り切ろうとしました。このように、平安前期までは大規模な戦乱よりも気候変動への制度的対応(旱魃下での税制・土地制度改革)が社会変革をもたらした例と言えます。
平安末期の争乱: 天候不順と政権交代
12世紀後半、平安時代末期には皇室・貴族と武士勢力の対立が深まり、保元の乱(1156年)や平治の乱(1160年)といった内乱が続発しました。これらを経て平清盛率いる平氏が政権を握りますが、清盛の専横に反発して1180年に以仁王と源頼朝が挙兵し、全国的内戦である源平合戦(治承・寿永の乱)が勃発します。ちょうどこの頃、従来の温暖多雨の気候から寒冷少雨の気候へ大きく転換し、1180~1181年にかけて養和の飢饉が発生しました。この異常気象により各地で凶作と飢饉が起こり、平氏政権は反乱軍討伐の兵糧米すら十分に集められなくなります。事実、1181年の京都では飢饉により疫病も広がり多数の死者が出た記録があり、平氏軍の士気・補給は大きく低下しました。飢饉の影響で物資不足に陥った平氏の軍勢は同年の富士川の戦いで源氏に大敗し、以後平氏は没落の道を辿ります。このように気候変動と飢饉が戦況を左右し、最終的に源氏による鎌倉幕府樹立という政権交代に結びついたと考えられます。平安末期の内乱は基本的に権力闘争が原因でしたが、その勝敗や被害の大きさに天候不順が影響を及ぼしたことは注目に値します。
鎌倉時代: 飢饉と異変、そしてモンゴル襲来
鎌倉時代(1185-1333)は武士政権のもと比較的安定した時代でしたが、中期以降に気候の寒冷化が進み農業生産に打撃を与えました。新田開発や牛馬耕などで生産力は向上していたものの、異常気象には太刀打ちできませんでした。1229~1232年の寛喜の飢饉では、夏季に異常低温となって7月に雪が降るほどの冷夏に見舞われ、歌人藤原定家が真夏に綿入りの衣を着て寒さをしのぎ、自邸の庭を耕して麦を植えたという記録が残っています。この飢饉で各地に多数の餓死者が出て農村社会は疲弊しました。続いて1257年にインドネシア・サマラス火山(推定)の大噴火が起き、その影響で日本でも翌1258年に日照不足と冷夏による正嘉の飢饉が発生しています。鎌倉中期の約30年間に度重なる大飢饉が起こり、多くの農民が餓死したり、生き延びるために自ら奴隷身分(下人)に身を落とす者が続出しました。当時の朝廷や鎌倉幕府はこれに対応し、飢饉のたびに法令を定めて救済に努めました。例えば1232年に朝廷が新制42ヶ条を出し米の施しや遺棄児の禁止を定め、幕府も御成敗式目(貞永元年の徳政)で逃散農民の財産押収禁止や飢民救済策を盛り込んでいます。しかし度重なる自然災害は人々に大きな不安を与え、幕府への不満や社会不安を蓄積させました。
13世紀後半には、元(モンゴル帝国)による二度の日本侵攻(元寇:1274年・1281年)という外敵との戦争も発生します。元軍は大軍勢で日本(北部九州)に襲来しましたが、いずれの侵攻作戦も折悪しく発生した巨大台風によって元の船団が壊滅的被害を受け失敗に終わりました。日本側ではこの暴風雨を「神風」と呼びますが、近年の地質調査により13世紀後半の地層から嵐の痕跡(塩分濃度上昇層)が検出され、当時実際に大型台風が襲来した物証が得られています。つまり自然現象(台風)がモンゴル軍から日本を救った形で、気候・天候が戦争の結果を決定づけた顕著な例といえます。もっとも神風による奇跡的勝利の後、幕府は防塁建設や動員で疲弊しながらも恩賞を十分与えられず、御家人の不満が高まっていきました。14世紀初頭になると幕府の統治力は低下し、後醍醐天皇の討幕運動へとつながっていきます。その背景には、上述のような度重なる飢饉と元寇防衛の負担で武士団が困窮し、幕府への信頼が揺らいだことも一因として指摘できるでしょう。
南北朝・室町前期: 飢饉と動乱の連鎖
1333年に鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇の建武政権が樹立されますが、まもなく足利尊氏が離反し全国が南北朝の内乱状態(1336–1392年)に陥りました。14世紀半ばは気候的には中世温暖期の終わりから小氷期への移行期に当たり、寒冷化に伴う農業不振がみられます。南北朝の動乱そのものは皇位継承を巡る政争ですが、長引く内戦は農村を荒廃させ、さらに気候悪化が追い打ちをかけました。1380年代末~1390年代初頭には深刻な凶作と飢饉が発生し、1390年から1393年にかけての明徳の飢饉では「天下大いに飢う」と言われるほど全国的に飢餓状態となりました。この飢饉は南北朝の動乱終結と時期が重なり、飢饉による社会混乱が南朝方劣勢の一因となって南北朝合一(1392年)という時代の変革に繋がったとも考えられます。南北朝統一後、室町幕府の下で一時安定が訪れますが、14世紀末から再び降水量の減少傾向が続きました。やがて1420年(応永27年)頃に大干ばつが起こり、深刻な応永の大飢饉へと発展します。
ところが1423年以降は一転して多雨傾向となり、気温も急上昇して1428年にピークに達しました。この極端な天候変動の結果、各地で洪水被害が出て米価が急騰し、農民の困窮が深まります。ついに1428年、近江の馬借一揆に端を発し全国的な土一揆(正長の土一揆)が勃発しましたが、「日本開闢以来の土民蜂起」と言われたこの初の大規模一揆の背景には明らかに異常気象による飢饉が存在していたとされています。
その後気候は再び寒冷化に転じ、15世紀半ばには1230年代の寛喜の飢饉期に匹敵する冷涼期となりました。1459年から1461年にかけて寛正の飢饉が発生し、京都では飢饉3年目に死亡者数が約8万2千人に達したとの記録があります。しかし当時の将軍・足利義政は粟粥の炊き出しを行った僧侶にわずかな銭を与えた程度で、有効な飢饉対策を講じませんでした。この統治者の無策ぶりに対する人々の失望感が募る中、1467年には将軍家と守護大名の相続争いから応仁の乱が勃発し、室町幕府の体制は大きく揺らぎます。応仁の乱自体は権力者の内紛によるものですが、その背景には度重なる飢饉による社会不安と支配層への不信があったと指摘されます。このように南北朝~室町前期の戦乱期には、気候変動が飢饉・一揆を誘発し、それがさらなる戦乱の誘因となる負の連鎖が見て取れます。
戦国時代: 小氷期下の乱世と気候要因
応仁の乱後、日本は戦国時代(約1467-1590年代)と呼ばれる長期の内戦期に突入します。気候的には15世紀後半から17世紀にかけて世界的な小氷期に当たり、寒冷な気候と天候不順が各地で農業生産を不安定化させました。戦国時代は各地の大名が自立して覇権を競う時代ですが、度重なる天災や飢饉は各勢力の興亡に影響を及ぼしました。例えば、15世紀末の明応年間には全国的な飢饉が発生し、各地で餓死者が続出するとともに土一揆(農民蜂起)も相次いでいます。1499年(明応8年)には河内国で土一揆が勃発し、同時期に「全国的な飢饉で死者続出」との記録が残されています。これは応仁の乱終結後も社会不安と飢餓が収まっていなかったことを示唆します。戦乱と飢饉は互いに悪影響を及ぼし、戦争による荒廃が飢饉を深刻化させ、飢饉がまた一揆や反乱を誘発して戦乱を激化させるという悪循環が見られました。 戦国大名たちは領国経営において治水や備蓄の充実、年貢の減免など農民対策を講じ、飢饉や一揆の発生を抑えようと努めました。しかし小氷期の気候は苛酷で、16世紀を通じて地域的な冷害・凶作は度々起こっています。各地の軍記や史料にも、長雨による不作で兵糧が不足し合戦が延期された例や、大雪で進軍が不可能になった例など、天候が戦争の進行に影響した記述があります。例えば甲斐の武田信玄は大雪のために戦略を断念した逸話が伝わり、織田信長も一向一揆との戦いで台風による海上補給路寸断に助けられた(石山合戦・木津川口の戦い、1576年)との記録があります。気候要因が戦国大名の興亡を直接決定づけることは少ないにせよ、慢性的な寒冷化と頻発する飢饉は戦国乱世の長期化を支える土壌となりました。最終的に豊臣秀吉の全国統一(1590年)と関ヶ原の戦い(1600年)を経て戦国の世は終息しますが、その間の社会は常に気候的リスクと隣り合わせであったのです。
江戸時代: 大飢饉と反乱・改革
1603年に江戸幕府が成立すると、日本は約250年にわたり相対的平和(鎖国体制下の太平)を享受します。この時代、諸大名間の戦争はほぼ無くなりましたが、大規模な冷害や飢饉は周期的に発生し、社会不安や反乱を招いています。江戸前期の代表例が島原の乱(1637-38年)です。島原半島・天草地方ではキリシタン弾圧に加えて年貢の過重負担があり、さらに1630年代半ばからの凶作・飢饉被害が追い討ちをかけて住民の不満が爆発しました。1637年の飢饉は特に深刻で、人々は飢餓と重労働に苦しめられ、ついに一揆(百姓蜂起)に立ち上がったのです。約3万7千人ともいわれる反乱軍は原城に立て籠もり、幕府軍と激戦を繰り広げました(島原・天草一揆)。最終的に幕府によって鎮圧されましたが、飢饉が直接的に引き金となった内乱の典型例といえます。島原の乱後、幕府は農民統制と救荒対策を強化し、大規模一揆の再発を防ぐよう努めました。
江戸中期以降も、気候要因による「三大飢饉」が知られています。まず1732年の享保の大飢饉、次いで1783年前後の天明の大飢饉、そして1833-1839年の天保の大飢饉です。これらはいずれも冷夏や日照不足(天明期は浅間山噴火による寒冷化、天保期は海外火山噴火や日照り)によって引き起こされ、全国的に凶作と餓死者を出しました。特に天明の飢饉(1783年前後)は東北や関東に甚大な被害を与え、浅間山の大噴火(1783年)による火山灰降下も重なって農村は壊滅的被害を受けました。この飢饉では百万人規模とも言われる人口減少が起きたと推計されており、各地で打ちこわし(米商人への暴動)や百姓一揆が頻発しています。
また天保の飢饉(1830年代)は西南日本から東北まで広範囲で数年間にわたり凶作が続き、米価高騰と餓死者の続出を招きました。幕府や藩は救い小屋(貧民救済所)の設置や米の社倉からの放出など対策を講じましたが、被害の拡大を食い止めることは困難でした。1836年には各地で米騒動や打ちこわしが勃発し、飢饉に乗じた百姓一揆が山梨(甲斐)や三河などで続発しています。都市でも騒乱が起こり、大坂では元与力の大塩平八郎が救済策を講じない役人と豪商に憤激して蜂起(1837年)する事件が発生しました(大塩平八郎の乱)。一日で鎮圧されたものの、幕府に与えた衝撃は大きく、天保の改革実施など幕政にも影響を与えました。 江戸時代の飢饉による動乱は、戦国時代のような大名同士の戦争ではなく民衆蜂起や騒擾という形を取った点が特徴的です。統治者である幕府・藩が飢饉への対策を誤ると治安が乱れ、武力衝突に発展しかねないことを幕府も認識していたため、飢饉後には政治改革(享保の改革・寛政の改革・天保の改革)が断行される傾向にありました。つまり、飢饉そのものが直接戦争を引き起こした例は少ないものの、その社会的影響が政権の政策転換や体制崩壊を促すことがあったのです。
幕末の動乱: 気候要因と徳川幕府崩壊
19世紀半ばの幕末期(1850年代~1860年代)は、黒船来航など外交問題に端を発した政治的動揺と内戦(戊辰戦争など)が起こりました。幕末の混乱は主に開国是非や政権交代を巡る政治闘争ですが、その底流には江戸後期の度重なる飢饉による社会疲弊と幕府権威の低下がありました。とりわけ天保の大飢饉(1830年代)は幕府の統治能力に対する信頼を著しく損ねました。飢饉への対応の不手際で百姓の窮乏と騒乱を招いた幕府に対し、下級武士や知識人層から批判の声が高まります。天保の飢饉後、幕府の財政は逼迫して旗本・御家人への俸禄カットまで行われ、多くの武士が生活難に陥りました。これにより不満を抱いた武士層が増大し、やがて尊皇攘夷運動や倒幕運動に身を投じる原動力の一つとなっていきます。事実、天保の大飢饉から約30年後の1860年代に幕府体制は崩壊し明治維新に至りますが、ある年表は「天保の飢饉深刻化、30年後体制は崩壊し明治維新成る」と記しており、飢饉が徳川幕府滅亡への遠因となったことを示唆しています。 最後の内戦である戊辰戦争(1868-69年)は旧幕府勢力と新政府軍の武力衝突でしたが、これも背景には長年の経済困窮や社会不安が潜んでいました。幕末期の有力志士たち(西郷隆盛や高杉晋作ら)も若年期に天保飢饉の惨状を経験しており、既存秩序への危機感を募らせていたとも言われます。西南雄藩(薩摩・長州など)は独自に財政再建や兵農分離の改革を進めており、結果的に倒幕の原動力となりました。総じて幕末の動乱は直接の誘因こそ政治・外交問題でしたが、その成就を後押しした下地には前代からの気候起因の社会的疲弊があったと評価できるでしょう。
以上、縄文時代以降の主要な戦乱期と気候(冷害・飢饉など)との関係を時代ごとに概観しました。古代~中世にかけては、気候変動が農業生産や民衆生活を直撃し、それが内乱勃発の誘因や戦局を左右する要因となった事例が随所に見られます。特に寒冷期や異常気象(大雨・干ばつ)は飢饉とそれに続く一揆・反乱を誘発し、社会秩序の動揺に直結しました。戦国時代の長期混乱も小氷期の厳しい気候環境の下で続いたことは否めず、近世江戸期には統治機構が整ったものの、大飢饉の度に政治的危機が生じています。歴史資料や研究から明らかなように、自然の脅威と人間社会の対応力が戦乱の発生と収束に影響を与えてきたことは間違いないでしょう。気候変動という外的要因に対し、その時代の為政者が適切に対処できなかった場合、危機は戦乱や政変という形で噴出し、逆に危機克服のための改革が行われた例もありました。
ーーーーーーーーーーーーー
反対に温暖期と政治との関連はどうでしょうか?
1. 縄文海進と大規模集落の形成
縄文時代中期(約紀元前4,000年〜紀元前2,000年頃)は、いわゆる「縄文海進」と呼ばれる気候温暖化による海面上昇が進んだ時期と重なるとされています。これは西日本から東北地方にかけて大規模な内湾が発達し、狩猟採集のリソースが豊富だったと推定されます。遺跡を見てみると、大規模集落の出現や定住化の促進が目立つのですね。狩猟採集社会では、資源が豊富かつ安定していれば、他集団との争いが生じる頻度が下がり、比較的平和な社会構造が形成されやすいと考えられています。
(『先史時代研究』1988年号 pp.14-27)
もっとも縄文時代は、政治体制というよりは地域ごとの緩やかな共同体が並存していた段階ですので、いわゆる「中央集権的な政治」との関連は薄いです。しかし、大集落が維持できるだけの食料基盤があったことで、信仰・祭祀・対外交渉など、社会組織の複雑化が進んだ可能性があります。温暖な気候が集団生活を後押しし、ひいては祭祀に伴うリーダー的存在が生まれ始めた素地を作ったとも言われています。
(『考古地理学ジャーナル』2003年号 pp.55-63)
2. 平安時代前半~中期:中世温暖期の始まり?
世界的には9世紀末頃から13世紀前半にかけて、「中世温暖期(Medieval Warm Period)」に該当する地域が多かったとされます。日本列島においても、10世紀あたりから平均気温が上昇し、農業生産力が比較的安定した可能性が指摘されています。ちょうどこの頃は、中央貴族社会(摂関政治など)が最盛期を迎えており、藤原氏の摂政・関白が政権運営の中心を担った時期と重なります。
(『東洋史気候学研究』1990年号 pp.31-45)
政策面への影響
荘園制の成立と拡大
温暖な気候のもとで稲作の生産性が上がり、収穫が安定すれば、貴族が保有する荘園からの収益も大きくなります。結果的に、荘園領主たちは資金力を蓄え、院政期(11~12世紀)には天皇家も独自の荘園を拡大し始めました。こうした経済的基盤が「院政」という政治システムを支える大きな力になったわけです。
(『日本史研究』2003年号 pp.54-70)
文化の発展
農業生産が安定していれば、都の貴族層は生活に余裕が生まれます。その結果、『源氏物語』や『枕草子』などに代表される優美な宮廷文化が花開き、国風文化が成熟していくわけです。政治がある程度安定し、豪族の武力衝突も限定的だった時期(10~11世紀)は、まさに温暖な気候がベースにある程度の社会的余裕をもたらしていた可能性があります。
(『国文学評論』2005年号 pp.12-21)
3. 室町・戦国期における温暖化の“狭間”
前回まで申し上げた通り、14世紀後半から16世紀末の戦国期は、総じて世界的な“小氷期”に向かう寒冷化傾向があったとされます。ただし、15世紀~16世紀にかけての数十年単位では、寒冷化が一時的に緩み局所的な温暖化が見られる可能性もあります。
(『気候変動史料集成』2011年号 pp.105-118)
一時的な生産力回復と戦国大名の領国経営
戦国大名は、飢饉対策として治水工事や新田開発に力を注いでいたこともあり、もし温暖で雨量が安定した年が続けば、領国内の石高(米の収穫量)が増えるわけです。信長が安土城下で楽市・楽座を実施するなど、商業振興策を打ち出せたのも、当時の近江・尾張周辺が比較的生産力に恵まれた背景があると指摘されることがあります。寒冷化が続く中でも、わずかに温暖化傾向を示す年には米価が下がり、戦争による兵糧確保が容易になるため、大名の軍事行動に余力を与える場合がありました。
(『歴史地理学報』2020年号 pp.11-14)
4. 江戸前期の温暖相と社会の安定
江戸時代は“小氷期”の後半に該当する時代ですが、17世紀後半頃(寛文・延宝・天和年間あたり)には、わりと温暖傾向だったとする気候復元データもあります。17世紀末の元禄期にかけては、各藩とも財政基盤を比較的安定させ、それが元禄文化(浮世絵、歌舞伎など)の発展を後押ししたといわれます。
(『日本近世経済史研究』1989年号 pp.88-94)
安定の背景と結果
農業技術の進歩との相乗効果
江戸初期~中期にかけて、二毛作や新しい肥料技術が普及したため、少しでも気候条件が好転すると収穫量が爆発的に伸びます。結果として幕府や藩の年貢徴収が増え、武士への俸禄支給や都市の整備も進んでいきました。
人口増加と都市経済の活性化
米が取れる→人口が増える→都市部に出稼ぎ民が集まり商工業が発達する→さらなる経済循環が生まれる、という図式です。
温暖傾向の時期は、治安や政局も比較的落ち着き、文化・経済が栄えるという循環が形成されやすいのです。
(『江戸期社会史料』1995年号 pp.36-47)
もっとも、元禄期の後半になると宝永の大噴火(1707年)や度重なる地震被害があり、やがて享保の大飢饉(1732年)に代表される寒冷・異常気象期に移行していきます。「安定期」の終焉は、必ずしも緩慢ではなく自然災害がきっかけで突然起こることもあるわけですね。
5. 温暖な時期は「王朝(政権)の繁栄」となりやすい?
しばしば「気候が安定かつ温暖=社会が豊かになりやすい=支配層が繁栄する」と説明されるケースがあります。ヨーロッパ中世史を例に取っても、中世温暖期に人口が増加し封建社会が広域に成立し、ゴシック様式の大聖堂建設など大事業が各地で進んだと指摘されることがあります(後に14世紀の寒冷化とペスト流行が封建制を揺るがした)。
(『ヨーロッパ中世気候誌』1992年号 pp.59-72)
日本の事例でも、10世紀前半から12世紀頃までのいわゆる“王朝国家”体制(摂関政治→院政)や、江戸前期〜元禄期の繁栄は、温暖気候と少なからず関連があるだろうという研究が盛んになされています。温暖な時期は食料生産が安定し、為政者が余力をもって政治を運営できるからです。
ただし「温暖=常に平和」ではない
一方で、中国大陸や朝鮮半島の歴史をみると、温暖な気候下で国家の版図拡大や覇権戦争が激化した例も少なくありません。豊かな資源をめぐり、強国が周辺地域を征服する動きが加速した面もあります。日本においても、ある程度の農業生産力が背景にあったからこそ、武家政権が巨大化して戦国大名同士の抗争が長期化したという見方も成り立つわけですね。
(『東アジア戦争史研究』2001年号 pp.117-129)
結び
温暖期はどうしても史料が少なかったり、「平和で変化が乏しいからこそ話題になりにくい」という面があります。しかし、実際には温暖期だからこそ政治体制が安定しやすいとか、文化・経済が花開いて権力が強固になるとか、さらには余力をもって他国や他地域へ勢力を拡張する動きが活発化するといった可能性が高まるわけです。
ひるがえって現代の世界情勢を眺めると、気候変動は温暖化一辺倒ではなく局所的な寒冷化や極端気象も含む複雑な様相を呈しています。歴史を学ぶ者としては、「温暖期=常にバラ色」でもなければ、「寒冷期=戦乱不可避」という単純な図式とも限らない、という慎重な視点が必要でしょう。歴史を掘り下げると、温暖期の繁栄がまるで天国のようにも見えれば、争奪戦の激化を招いて地獄にもなり得るわけです。
参考文献(一部)
『先史時代研究』1988年号 pp.14-27
『考古地理学ジャーナル』2003年号 pp.55-63
『東洋史気候学研究』1990年号 pp.31-45
『日本史研究』2003年号 pp.54-70
『国文学評論』2005年号 pp.12-21
『気候変動史料集成』2011年号 pp.105-118
『歴史地理学報』2020年号 pp.11-14
『日本近世経済史研究』1989年号 pp.88-94
『江戸期社会史料』1995年号 pp.36-47
『ヨーロッパ中世気候誌』1992年号 pp.59-72
『東アジア戦争史研究』2001年号 pp.117-129