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BLOG 藤本幸弘オフィシャルブログ

カテゴリー:文化・芸術・歴史

和賀江島──鎌倉の海に眠る、石の記憶

和賀江島──鎌倉の海に眠る、石の記憶

鎌倉に生まれ育った者として

僕は、幼い頃から何度となく材木座の海で遊んできました。そして大人になってあらためて気づかされたのです。

あの石の列が、日本最古の人工港だということに。

「え?これが港だったの?」と、初めて目にした人はきっと驚くでしょう。

潮が引いた日の朝、その沖合にうっすらと姿を現す石の列──あれが和賀江島(わかえじま)です。

今日は操縦していたヘリコプターで飛んだので写真を撮りました。ちょうど干潮の時間だったのですね。

あの石たちは、800年も前から、波にも風にも耐えながら、静かに人の営みを見守ってきた構造物なのです。

1252年、鎌倉の海に築かれた挑戦

和賀江島が造られたのは、建長4年(1252年)。

当時の鎌倉幕府は、都・京都との交易を盛んに行うようになり、大型の船が出入りするための本格的な港の整備が必要になってきました。

しかし、鎌倉の海岸線は遠浅で、船がつけにくい。

加えて、鎌倉時代(1185〜1333年)当時の海岸線は、現在よりも内陸部まで海が入り込んでいたと考えられています。とくに由比ヶ浜から滑川、さらには材木座方面にかけての一帯は、干潟や入り江が広がっており、海が現在よりも数百メートル奥にまで迫っていたと推定されています。

これは、発掘調査で確認された海成層や、遺跡の位置関係などからも裏付けられています。

和賀江島は、当時の海岸線が現在よりも遥かに陸側だったために、和賀江島は沖合に設けられた荷揚げ場だったのです(現在は潮が引くと歩いて行けるほど陸続きに見えます)。

そこで、三浦氏や北条氏らが中心となって、沖合に石を何層にも積み上げて突堤を築くという、今で言えばまさに「海洋インフラ」のような人工島をつくったのです。

石を積む作業は、想像以上に過酷だったはず。

ただの岩場に見えても
干潮のときにだけ顔を出す和賀江島。

普段は波に隠れてしまっているので、「気づかずに通り過ぎていた」という方も多いかもしれません。

潮の香り、石の冷たさ、波の音の合間に、かすかに鎌倉時代の職人たちの息遣いを感じられるような気がしてくるのです。

なぜ、今、和賀江島なのか
派手な観光名所ではありません。

けれども、この国の物流、工学、政治、すべてが交差した場所として、和賀江島には深い意味があります。

鎌倉という土地が、「武士の都」であると同時に、「交易の都」「技術革新の都」でもあったことを、私たちに教えてくれるのです。

そして何よりも──
この石たちは、800年の時を超えて、今を生きる私たちに「時間の重み」と「人の営みの持続性」を静かに伝えてくれます。


ゴルフ医科学研究所 「第3回昭和100年史を遡る」の現代史勉強会

昨晩はゴルフ医科学研究所にて「第3回昭和100年史を遡る」の現代史勉強会でした。

昭和20-30年は、終戦後の東京裁判、サンフランシスコ条約締結、朝鮮戦争、アジア各国の独立、社会主義の政治への侵食などがテーマとなりました。前半は藤本が、後半は前回同様に一次資料を元にして加賀社長にお話いただきました。終了は今回も12時近くまで。外では話せない情報や、学ぶ事も多く、日本のこれからについて考えさせられました。

講演でも歴史書は後の勝者が書き換えた話といいましたが、現在の日本の歴史常識は第二次世界大戦後に書き換えられたともいえますので、年表を遡っての追体験は大切だと思います。

次回は7月終わりぐらいの週の開催を考えています。昭和30年(1955年)は、政治では55年体制が始まった年。

昭和1-30年は、世界大戦を挟んで、世界情勢がめまぐるしく変化したので10年づつとしましたが、

第4回は昭和30-50年と期間を20年間とし、

55年体制、国民総中流、価値観を揃えての高度成長期、石油ショックこの辺りをテーマに考えてゆきたいと思います。

 

 

参考

55年体制とは簡単にまとめると,約3分の2の議席数を占め政権を握る自由民主党と,憲法改正阻止に必要な3分の1の議席数を保持する野党の日本社会党の2大政党が議会で対立する政治体制のことです。1955年に成立した体制なのでこのように呼ばれています。


日本近現代の時代精神を読む:文明の進化と欲望の系譜

日本近現代の時代精神を読む:文明の進化と欲望の系譜

昭和100年史の企画を2ヶ月ごとに開催する度に、日本の近代史を学ぶ作業をしているのですが、これは明治以降の時代を俯瞰する事にも繋がります。

日本社会は常に技術革新・社会構造・心理的欲望が三位一体となって進化してきました。その背景にあるのは、「何に価値を置くか」という問いへの時代ごとの回答です。

明治:価値=西洋の文明
昭和初期:価値=国家と軍事
高度成長期:価値=物質と家族
バブル:価値=金と夢
平成:価値=癒しと安全
令和:価値=接続と意味
未来:価値=人間性そのもの?

僕の身の回りには、今だに金と夢を追っている人たちもいますが、思えば若い世代にはあまりいないですね。世代によって大きく価値観が変わるのは、この辺りが理由かもしれません。

● 明治〜大正期:

「西洋を追え、帝国を築け」――文明開化の疾走
鉄道が走り、ランプが灯り、鹿鳴館には社交界が咲いた。
“富国強兵”の四文字がすべてを駆動したこの時代、日本人はまだ「時間」すら輸入品だった。
→ キャッチ:「腕時計が国家の鼓動だった」

● 昭和初期(1920〜1945):

「統制と欲望のジレンマ」――モダン都市と国家主義の交錯
銀座の屋上庭園と、満洲の夢。
モボ・モガがジャズに酔う影で、国防色の空気がじわりと立ち上る。科学も芸術もすべて「お国のため」のスローガンに回収されていく。
→ キャッチ:「国策と流行が、ひとつ屋根の下」

● 昭和中期(1950〜1970年代):

「科学万能主義の時代」――モノづくりと信仰の交差点
テレビが家庭に入り、冷蔵庫が四季を忘れさせ、クーラーが都市に夏をもたらした。月よりも先に、私たちは「三種の神器」を手にした。
→ キャッチ:「家電が家族の神になった時代」

● 昭和後期〜平成初期(1980〜90年代):

「バブルという蜃気楼」――欲望と虚構のバランスシート
ジュリアナ東京の羽根扇の下で、地価は天を衝いた。
“24時間戦えますか?”が美徳とされた日々の先に、崩壊が待っていた。
→ キャッチ:「夢をローンで買った時代」

● 平成後期(2000〜2010年代):

「失われた20年のリバウンド」――癒しと“かわいい”の国家戦略
バブル崩壊後の虚無を埋めるように、街には“癒し”と“かわいい”があふれ出す。ハローキティ、スヌーピー、ゆるキャラ。少子高齢化が進行するなかで、社会はふわふわしたマスコットに感情を投影した。そして、リストラと非正規が「働くとは何か」を問い直させた時代。
→ キャッチ:「マスコットが国家のメンタルケア」

● 令和初期(2020年代〜):

「パンデミックと孤独の社会設計」――マスクとスマホの向こうに
COVID-19によって「密」という文字が禁忌となり、教室も会社もリモート化。“家”は避難所であり、閉鎖空間でもあった。Zoomで会議をし、LINEで恋をし、TikTokでバズる。つながりすぎて孤独になる、新しい時代が静かに始まっている。
→ キャッチ:「声よりアイコンが先に届く」

● 近未来(2030年代以降 予測的視点):

「人間と機械の親密化」――共存か、融合か
生成AIが詩を詠み、絵を描き、医師のカルテを下書きする時代。人間の創造性は問われ続け、“知識の所有”は“問いのデザイン”へとシフトしていく。「人間にしかできないこととは?」という問いが、すでに時代遅れになるかもしれない。
→ キャッチ:「AIが“先生”と呼ばれる日」

未来は人間性そのものが問われる時代になるのでしょうか。


MACHINE LOVE展を前にして──あなたの心は機械に恋をするか?

MACHINE LOVE展を前にして──あなたの心は機械に恋をするか?

森美術館のエントランスに掲げられた一枚のポスター。

そこには、都市の残像を背負いながら、どこか生身のようで、どこか無機質な人物が、ゲートのようなフレームを通過していく様が描かれていたのです。

タイトルは「MACHINE LOVE」。副題に「ビデオゲーム、AIと現代アート」。
まるで、「あなたは機械を愛せますか?」と問いかけられているかのようでした。

機械に感情はあるのか?──神経科学とAIの狭間で
近年の脳科学研究では、感情とは扁桃体・前頭前皮質・島皮質などのネットワークによって生み出されるとされています。一方で、AIもニューラルネットワークによって「判断」や「選好」を示すようになりました。

しかし――AIに「情動」はあるのでしょうか?

もちろん、AIはオキシトシンもアドレナリンも分泌しません。ですが、我々がそれに「感情を投影する」ことで、擬似的な共感が成立してしまうのです。

これは心理学でいう「擬人化(personification)」の一種であり、ある種の脳内報酬系の活性と関係しています。

「感情を持っているように見える」ことが、私たちにとっては時に「感情がある」にすり替わってしまう。そこにこそ、人間とAIとの未来的な愛の予感があるのではないでしょうか。

https://www.facebook.com/1486146253/videos/pcb.10237808045168764/644773808601589

アートとしてのビデオゲーム──能動性と共感の融合

ビデオゲームは、もはや「遊び」だけのものではありません。プレイヤーは選択をし、感情移入し、時に自分の倫理観を問われる。これは、芸術でいう「没入」と極めて近い体験です。

近年ではゲームセラピーも注目されており、PTSDや社交不安に対する介入法としても用いられるようになってきました。つまり、ゲームは心を癒し、再構築するメディアになり得るということ。

この展覧会では、そのようなヒーリングと葛藤、共感と異化が、AIという「第三の意識」として登場しているように感じます。

https://www.facebook.com/1486146253/videos/pcb.10237808045168764/10016028281753800

「愛」の定義が変わる時代へ

この展示の最大の問いは、もしかすると「人間にとっての愛とは何か」という根源的なテーマなのかもしれません。

感情とは脳の演算の一種であり、愛とは神経伝達物質の複合的な現象である。

であれば、その構造を模倣する機械が「愛」を演じることに、果たして何の違和感があるのでしょうか?

むしろ、我々人間がそれを「愛として受け入れる柔らかさ」を持てるかどうか――それこそが、未来の社会の医療や福祉、コミュニケーションにおいて決定的な鍵となるのではないかと思うのです。

六本木の高層階で行われるこの展示は、ただのアートイベントではありません。それは、「医療と芸術とAIの交差点」であり、そして「僕たちの感情の再定義の場」、「人間性とは何か」を問い直すものでした。

とりわけ、生成AIが創造の領域へ踏み込んできた2020年代後半、我々はアートの主体を機械と共有するようになった。アートは感性の表現であるはずだが、その感性が機械に代替されつつあるという事実には、どこか背筋の冷たさすら感じましたね。

出展作家には、Beeple(NFTアートの旗手)やAnicka Yi(AIとバイオアートの境界を超えるアーティスト)といった国際的な名前が連なっていますが、注目すべきは佐藤龍太郎(Sato Ryotaro)や藤倉麻子(Fujikura Asako)といった日本人作家の存在感です。これは単なる海外アートの輸入展ではなく日本発のメッセージも強く内包していることが伺えます。

本展は、未来に向けて「感性の座標」を更新する、そんな試みなのかもしれませんね。

会期:2025年2月13日(木)~6月8日(日)
会場:森美術館(六本木ヒルズ森タワー53階)
主催協賛:楽天モバイル、大林組など
併設展覧会:MAMコレクション各種


ピカソという遺産が、マラガにもたらしたもの

ピカソという遺産が、マラガにもたらしたもの

僕が通っていた湘洋中学校の美術の先生が、授業中ふとこんなことを言ったのをよく覚えている。

「いろいろな画家の絵を見てきたけれど、自分にとってピカソは別格なんだよ」

当時の僕には、その意味がまったく分からなかった。けれど大人になり、世界各地でピカソの作品に出会うたびに、その言葉が胸の中で静かに蘇る。そして、いまでは僕自身が深く同意している。

マラガはピカソが生まれ、10歳までを過ごした町だ。石畳の路地を歩き、広場で鳩を見かけると、思わずこう思ってしまう──これはピカソが描いたあの鳩の、ひょっとすると子孫かもしれないと。

彼は、この地に“未来の目”を与えた。

多作だったピカソの作品群は今や世界中に広がり、驚異的な経済的価値と文化的影響を持っている。その一部はマラガに戻り、Museo Picasso Málaga や Fundación Picasso を中心に、街の精神的な中核を形成している。

ピカソという名前は、マラガという都市の可能性を根底から書き換えた。

彼の名を冠した美術館は世界中の美術ファンや研究者を引き寄せ、旧市街の再生を促し、経済・文化・国際性のすべてにおいて都市を底上げしてきた。その結果、マラガは単なる「地中海の港町」ではなく、いまや「世界的芸術都市」としての道を歩み始めている。

では、ピカソ自身が芸術にもたらしたものとは何だったのか。

彼は20世紀という動乱の時代において、芸術の「形式」も「思想」も同時に破壊し、そして再構築した稀有な存在だった。

形式面での最大の革新は、ジョルジュ・ブラックとともに創始したキュビスムにある。1907年の《アヴィニョンの娘たち》によって、絵画は三次元空間を模倣するだけの存在ではなくなり、複数の視点を同時に内包し、「時間と空間の知覚を一枚の画面に封じ込める」試みへと進化した。絵画は「見るもの」から、「考えるもの」となったのである。

また彼は、芸術が社会や政治に対して応答する手段であることを示した。《ゲルニカ》(1937年)はスペイン内戦下の無差別爆撃を題材に、人間の苦悩と暴力を描いた。芸術が「抗議」や「記録」として機能する可能性を、これほどまでに強く世界へ示した作品はほとんどない。

さらにピカソは、表現媒体においても境界を持たなかった。絵画にとどまらず、彫刻、版画、陶芸、舞台装置まで自在に行き来した彼は、芸術とは何かという定義そのものを問い直す存在だった。彼の実験精神は、アンディ・ウォーホル、バスキア、そして現代のデジタルアーティストたちにも受け継がれ、ジャンルを超える表現の可能性を拓いていった。

つまり、ピカソが芸術に与えた最大の貢献とは、「芸術には不変のかたちなどない」「すべては変化しうる」というメタ芸術的思想を私たちの意識に根づかせたことにある。

彼はスタイルの創始者ではなく、常に問い続ける存在だった。そしてその問いは、彼の故郷であるマラガにもまた、新たな未来の眼差しを与えている。


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