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BLOG 藤本幸弘オフィシャルブログ

カテゴリー:映画

JAL A350

極圏を通過する14時間フライト。A350は疲れ知らずのいい機体ですね!

行きの機内では英語に慣れるために洋画を観ることが多いのですが、今回はなんとなく良いものが無く、邦画の「花まんま」と「リライト」を観ました。

どちらも良い映画でした。

特に「花まんま」はおすすめします。

機内食もカンテサンスには最近行けていませんが、岸田シェフの味を思い出しました。

A 14-hour flight over the polar region. The A350 is such a comfortable aircraft—it never seems to make me get tired ! On outbound flights, I usually try to find Hollywood or UK made movies to get myself used to the language and the vibes,but this time, nothing really caught my eye. So I ended up watching two Japanese films: Hanamanma and Rewrite. Both were excellent, and I especially recommend Hanamanma. As for the in-flight meal, I haven’t been to Quintessence lately, but the flavors reminded me of Chef Kishida’s cuisine.


ロバート・デ・ニーロ主演の映画『俺たちは天使じゃない』

今日のクリニックFの受付で流しているのはロバート・デ・ニーロ主演の映画『俺たちは天使じゃない』。

ハンフリー・ボガート主演の1948年米映画 “We’re No Angels” のリメイク版です。

1989年のこの作品、舞台はカナダ国境近くの修道院。

刑務所を脱走した二人の囚人(デ・ニーロとショーン・ペン)が、偶然修道士と間違えられて修道院に匿われるという展開。

もちろん二人は天使どころか、刑務所から逃げてきたばかりのアウトローだ。だが、追っ手から身を守るために「善人」を演じるうち、彼らは意図せず人助けをしてしまう。

彼らはバレないように「善人」を演じるのですが、人間の行動は単純な善悪では割り切れないというテーマが浮かび上がります。

この映画、単なるコメディに見えますが、

役割と本質のズレ(見かけの聖職者 vs 実際の犯罪者)
人間の中の善悪の同居
環境が人を変える可能性

がうまく描写されています。

人間は「天使」でも「悪魔」でもなく、その中間に揺れ動く存在だという、人間性の二面性を示すメタファーとしても読めます。心理学的にも、人間は利他的行動と自己中心的行動を併せ持つということなんでしょうね。

話変わって

映画のタイトルは
“We are no angels” であって
なぜ”We are not angels” じゃないんでしょう?

ネイティブじゃない僕はよくわからなかったのですが、ChatGPTが教えてくれました。

両者は文法的にはどちらも正しいですが、意味や響きが違います。

1. “We are no angels” のニュアンス

口語的でイディオム的な表現。
「私たちは決して天使なんかじゃない」というニュアンスで、「(むしろ)悪い面もある」 ことを暗示します。
「no」が使われることで、事実の否定というよりも性質や評価の強調になります。
映画『We’re No Angels』のようにタイトルで使うと、ちょっとした皮肉・ユーモアが混ざります。
例: He is no doctor.(彼は医者なんかじゃない → 実際には全然そう見えない)

2. “We are not angels” のニュアンス

単純な事実の否定。
「私たちは天使ではない」という、説明的でフラットな意味。感情的なニュアンスや皮肉はなく、ただ属性を否定しているだけです。
例: We are not doctors.(私たちは医者ではありません)

つまり

映画タイトルが “We are no angels” なのは
タイトルでは事実を淡々と否定するよりも、「ちょっと悪い奴らだけど憎めない」というニュアンスを出したいからです。
“no” はそういうキャラクター描写にぴったりで、聞いた瞬間に“ストレートじゃない魅力”を感じさせます。

なるほど。勉強になりました。


今日の映画『細雪』

クリニックFの受付では、気分によって僕が好きな映画を流したり、「音楽は名医」の僕のラフマニノフのピアノ協奏曲の指揮の映像を流したりしています。

今日は『細雪』(1983;監督:市川崑)。

高校時代に好きだった文士、谷崎潤一郎の名作の映画化。

日本美と姉妹の情感が織りなす映像の旅。

蒔岡家の四姉妹が桜咲く嵯峨野で花見に興じるところから映画は始まりますが、四季折々の光と色彩を市川崑監督が巧みに捉え、映像詩のよう。

吉永小百合を筆頭に、岸惠子、佐久間良子、古手川祐子と、当時のトップスターがまさに勢揃いしていますが、本当に気品があって美しい4人。今の時代の女優さんなら、それぞれが誰になるのでしょう。

まさに日本の美ですね。


映画『国宝』──“文化の鎮魂と昇華”

東京32度。休診日の今日は鷹の台でゴルフの予定だったのですが、1人が体調不良のため昨日キャンセルに。まあ暑すぎますから命拾いしたかもですね。

そんな僕は見たかった国宝を観にいきました。友人もこぞって絶賛するこの作品。

【映画『国宝』──“文化の鎮魂と昇華”】

歌舞伎という世界は、観る者にとって常に“遠くて近い存在”である。その美と型、血筋と修練、そしてそこに宿る無常観。今回の『国宝』は、そんな歌舞伎の世界を、一本の映画として極めて誠実に、そして壮大に映し出していた。

吉沢亮が演じる主人公は、ヤクザの息子として生まれながらも、歌舞伎役者として頂点に立つまでの人生を歩む。幼少期の貧しさ、血の宿命、芸に命を賭ける覚悟。そこには、人間が“国宝”と呼ばれるに至る過程の苦しみと美しさが凝縮されていた。

圧巻は、舞台稽古から本舞台へ至る演技の連続性。

カメラの前で芝居をするのではなく、舞台上の演技をそのまま映画に封じ込めたような、圧倒的な“現場感”があった。

そして何より、歌舞伎の型が単なる伝統芸能ではなく、“人間存在の究極の表現形態”であることを、理屈ではなく感覚で理解させる力があった。

ただ一方で、映画というメディアの限界も感じた。

舞台の空気感を封じ込めるがゆえに、映画ならではの演出美やカットの妙がやや犠牲になっていた感も否めない。

しかし、それを補って余りある熱量と誠実さがあった。

文化とは何か。

人間国宝とは何か。

その問いの答えは、国家の制度ではなく、観る者の胸に湧き上がるこの感情そのものだと、改めて感じさせられた。

“国宝”という言葉は、本来、ただの称号ではない。

そこには、滅びゆくものへの鎮魂と、永遠を願う祈りがある。

この映画は、まさにその祈りを現代に伝える作品だった。


新国際学会周遊記 番外編 ― ヴァティカンの沈黙、そして白煙 ―

新国際学会周遊記 番外編
― ヴァティカンの沈黙、そして白煙 ―
(映画『教皇選挙(Conclave)』を観て)

六本木ヒルズで観たもう一本の映画。

『教皇選挙』――原題は“Conclave”。

2025年3月、日本で封切られたばかりの作品である。

主演はレイフ・ファインズ。

彼の名を聞くだけで、僕はかつての『イングリッシュ・ペイシェント』を思い出してしまう。あの孤独な砂漠の空気が、このシスティーナ礼拝堂の閉ざされた空間にも、どこか重なって見えるから不思議だ。

舞台はバチカン。教皇の急逝によって招集された120名の枢機卿たちは、白い煙を立ち上らせるまで外界と遮断された密室「コンクラーベ」に籠もる。

この設定を聞くだけで、神経を研ぎ澄ませる会議体――いわば「天の意志に最も近い民主制」のような印象を受けるが、実際は信仰、政治、策略、そして個人の内面が複雑に絡み合った巨大な人間ドラマである。

本作の真の主役は、この「沈黙」と「まなざし」だ。

レイフ・ファインズ演じるローレンス枢機卿の沈黙には、重い祈りが込められている。彼は神を信じるがゆえに、沈黙すべきか、真実を語るべきかで引き裂かれる。

それはまさに、学術会議や医療倫理の現場で我々が直面するあの「声なき声を聴く」という命題に通じる。

映像はまるで、光の信仰画だ。

カラヴァッジョを思わせる構図の中で、蝋燭の炎が枢機卿たちの顔に揺らめく。陰影礼賛の極致。

その一人ひとりの表情から「人間の真実」がじわりと滲み出るさまは、顕微鏡で覗いた細胞のように繊細で、美しい。

結末はここでは語らないが、スクリーンに映し出された“あの白煙”を見た瞬間、ふと思った。

コンクラーベとは、単に教皇を選ぶ場ではない。

それは“信仰と政治の交差点”であり、ひいては“人間が内面の審判を下す場所”でもあるのだと。

この作品は、静かに、しかし確かに問いかけてくる。

我々は、どんな場面であっても、自らの良心に基づいた「白煙」をあげられるか――と。

そして映画の幕引き寸前、全てが覆る予想外の結末。

「男子のみが継承しうる制度として、現在も世界的に制度化されて残っているもの」としては、ローマ教皇制度と日本の皇位継承制度は特異かつほぼ唯一の存在と言ってよいでしょう。あとはダライラマぐらいか…。

それぞれカトリック的普遍性と日本的特異性を体現する制度遺産といえるかもしれません。

うーん。最後の展開は、医師としても考えさせられました。


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