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BLOG 藤本幸弘オフィシャルブログ

カテゴリー:映画

新国際学会周遊記 番外編 ― ヴァティカンの沈黙、そして白煙 ―

新国際学会周遊記 番外編
― ヴァティカンの沈黙、そして白煙 ―
(映画『教皇選挙(Conclave)』を観て)

六本木ヒルズで観たもう一本の映画。

『教皇選挙』――原題は“Conclave”。

2025年3月、日本で封切られたばかりの作品である。

主演はレイフ・ファインズ。

彼の名を聞くだけで、僕はかつての『イングリッシュ・ペイシェント』を思い出してしまう。あの孤独な砂漠の空気が、このシスティーナ礼拝堂の閉ざされた空間にも、どこか重なって見えるから不思議だ。

舞台はバチカン。教皇の急逝によって招集された120名の枢機卿たちは、白い煙を立ち上らせるまで外界と遮断された密室「コンクラーベ」に籠もる。

この設定を聞くだけで、神経を研ぎ澄ませる会議体――いわば「天の意志に最も近い民主制」のような印象を受けるが、実際は信仰、政治、策略、そして個人の内面が複雑に絡み合った巨大な人間ドラマである。

本作の真の主役は、この「沈黙」と「まなざし」だ。

レイフ・ファインズ演じるローレンス枢機卿の沈黙には、重い祈りが込められている。彼は神を信じるがゆえに、沈黙すべきか、真実を語るべきかで引き裂かれる。

それはまさに、学術会議や医療倫理の現場で我々が直面するあの「声なき声を聴く」という命題に通じる。

映像はまるで、光の信仰画だ。

カラヴァッジョを思わせる構図の中で、蝋燭の炎が枢機卿たちの顔に揺らめく。陰影礼賛の極致。

その一人ひとりの表情から「人間の真実」がじわりと滲み出るさまは、顕微鏡で覗いた細胞のように繊細で、美しい。

結末はここでは語らないが、スクリーンに映し出された“あの白煙”を見た瞬間、ふと思った。

コンクラーベとは、単に教皇を選ぶ場ではない。

それは“信仰と政治の交差点”であり、ひいては“人間が内面の審判を下す場所”でもあるのだと。

この作品は、静かに、しかし確かに問いかけてくる。

我々は、どんな場面であっても、自らの良心に基づいた「白煙」をあげられるか――と。

そして映画の幕引き寸前、全てが覆る予想外の結末。

「男子のみが継承しうる制度として、現在も世界的に制度化されて残っているもの」としては、ローマ教皇制度と日本の皇位継承制度は特異かつほぼ唯一の存在と言ってよいでしょう。あとはダライラマぐらいか…。

それぞれカトリック的普遍性と日本的特異性を体現する制度遺産といえるかもしれません。

うーん。最後の展開は、医師としても考えさせられました。


名探偵コナン『隻眼の残像』に見る“科学と情感のクロスオーバー”

名探偵コナン『隻眼の残像』に見る、“科学と情感のクロスオーバー”

六本木ヒルズの映画チケットが二枚。5月中に使わねば失効という事情も手伝って、ふと今回のコナンは凄いと聞いたのを思い出し、「名探偵コナン」の劇場版を選んでみた。

人生で初めて観るコナン映画。でも2025年4月18日に公開された『名探偵コナン 隻眼の残像(フラッシュバック)』は、シリーズ第28作にして堂々の話題作。公開初週末には興行収入34億円を叩き出し、以後も4週連続で1位を維持、日本映画界の春を賑わせている。

観客層は幅広いとは聞いていたが、平日の昼間という時間帯のせいか、館内は子供連れ中心。大人一人で座る自分の姿に、ほんの少しだけ気恥ずかしさを覚えたが、それも上映が始まるまでのことだった。

本作の舞台は長野・八ヶ岳連峰、そして国立天文台・野辺山。雪山を背景に、長野県警の大和敢助警部と毛利小五郎が物語の軸を担う。10ヶ月前、雪山で追跡中に狙撃され左眼を負傷した大和警部。雪崩に巻き込まれながら奇跡的に生還した彼の前に、野辺山での新たな事件が訪れる。

―科学を情緒で包む脚本術―

注目すべきはその構成だ。電波望遠鏡、時空、残像、記憶といった抽象的かつ科学的概念を、「未解決の事件」や「過去に取り残された想い」といったヒューマンドラマに転化させる脚本の妙。

脚本は櫻井武晴氏。2016年の『純黒の悪夢』でも知られる名手であり、今回も「科学を物語として翻訳する」手腕が光る。パラボラアンテナが動くその瞬間、過去の記憶がフラッシュバックする。まるで、宇宙の電

波が心の奥底に届くように。これは、科学にロマンを与え、心に火を灯す詩的装置である。

―野辺山の夜空と、子供たちのまなざし―

国立天文台・野辺山のシーンでは、巨大パラボラアンテナが宇宙の静寂を聞き取るかのように動き、星空の下で物語が進行する。科学的でありながら、視覚的にはまるで童話のような美しさ。

ここに子供たちはワクワクを見出し、大人たちはサスペンスの中に郷愁を見出すのだ。

―涙を誘う、小五郎の一滴―

本作で最も印象的だったのは、毛利小五郎の涙。普段は三枚目役の彼が、かつての戦友の“痛み”に静かに涙を流す。この一瞬に込められた情感こそが、大人の観客の胸を打った。そして子供たちには、「強い大人でも涙を流す」ことの意味を教えてくれた。

―なぜ子供にも響いたのか?―

視覚的魅力:雪山の幻想的な描写、夜空と星、そして巨大なパラボラアンテナ。科学機器ながら「巨大ロボ」のようなときめきもあり。

感情と科学のリンク:電波、記憶、残像を結びつけた構造が、心理サスペンスとSFの両方として成立。

多層的キャラクター性:コナン、哀、小五郎、大和警部。それぞれが大人の理性と子供の冒険心の橋渡しを果たしていた。

総じて言えることは、「科学」と「感情」が物語の両輪として機能していた、ということだ。これは、私たちが学会発表や医療技術の解説においても忘れてはならない原則である。

心に届く科学には、必ず“人のドラマ”がある。

そしてそれは、観る者の年齢を超えて、感動と記憶を刻むのだ。

登場キャラクター
江戸川コナン:主人公。
毛利小五郎:探偵。
毛利蘭:小五郎の娘。
大和敢助:長野県警警部。
諸伏高明:長野県警警部。
上原由衣:長野県警刑事。
黒田兵衛:警視庁管理官。
安室透(降谷零):公安警察。
風見裕也:公安警察。
灰原哀:コナンの協力者。
阿笠博士:発明家。
少年探偵団:吉田歩美、小嶋元太、円谷光彦。

制作スタッフ
原作:青山剛昌(小学館「週刊少年サンデー」連載中)
監督:重原克也
脚本:櫻井武晴
音楽:菅野祐悟
アニメーション制作:トムス・エンタテインメント
配給:東宝


「ジブリが陳腐化する」生成AIで“量産型ニセジブリ”SNSで氾濫

然もありなん。個人で楽しむのは良いけれど….。

今年中に、AIだけで映画が撮れる様になりますからね。アニメどころか、声優、俳優までもが影響を受けそう。

また本物そっくりのディープフェイク動画が出るおかげで、YouTubeの動画マーケティングは方式を変えざるを得ないでしょうね。

ジブリ風AI画像の功罪

はじめに
近年、SNS上で「ジブリ風AI画像」が爆発的に増え、ジブリのような温かく幻想的なビジュアルが、多くの人々を魅了しています。しかしその一方で、この現象には様々な倫理的・文化的問題が潜んでいます。本稿では、その魅力の根源と、見落とされがちなネガティブな側面を整理し、私たちがAI画像にどう向き合うべきかを考察します。

魅力的な点:なぜ人はジブリ風に惹かれるのか
• 懐かしさと安心感:自然・田園・手作業・風の表現といった要素は、現代社会に生きる人々に癒しを与える。
• ノスタルジックな色調と構図:アースカラーを中心とした柔らかいパレット、遠近感のある構図は、誰もが一度は見たような「記憶の風景」を呼び起こす。
• 感情のある風景:人物が小さく、自然が主役という構図は、見る人に人生観的な余韻を与える。

問題点1:著作権・知的財産権のグレーゾーン
スタジオジブリのビジュアルや作画タッチは、著作権保護の対象であり、それを模倣した画像をAIで生成・拡散・販売することには法的なリスクが伴います。とりわけ商用利用は侵害の可能性が高く、ファンアートとは一線を画します。
宮崎駿は、AIによる芸術模倣に対して「生命に対する冒涜」とまで語っています(NHKスペシャル『終わらない人 宮崎駿』, 2016年)。

問題点2:創造性の希薄化
AI生成画像が「ジブリっぽければ美しい」といった評価基準を固定化させることで、若い創作者の自由な発想や独自表現を妨げる可能性があります。模倣が称賛される風潮の中で、創作が「最適解の反復」になってしまう危険があります。

問題点3:作品思想の脱文脈化
ジブリ作品の根幹には、自然と文明の対立、命の循環、戦争への批判、女性の自立といった深いテーマがあります。しかしAI画像はそれらの思想性を抜き落とし、表層的なビジュアルのみを消費対象とするため、結果として本来の作品意図を矮小化することに繋がります。

問題点4:文化的ステレオタイプの助長
ジブリ風画像の多くは「和風」「田舎」「黒髪の少女」「祭り」などをステレオタイプ的に配置し、それを“東洋の美”として扱います。これは無意識のうちに、文化の記号化やエキゾチック化、ひいては文化の盗用(カルチュラル・アプロプリエーション)を助長するリスクも孕んでいます。

結論:リテラシーと敬意を持って使うべき
ジブリ風AI画像は、人々の記憶と感情に訴える力がありますが、その背景には本来の思想・哲学・職人芸術があることを忘れてはなりません。模倣するのであれば、敬意を払い、その本質を理解しようとする姿勢が求められます。私たちがどのようにAIと創作文化を共存させるか。その問いの中にこそ、今後の表現の未来がかかっています。

「ジブリが陳腐化する」生成AIで“量産型ニセジブリ”SNSで氾濫


ロゴは「マフィア映画の象徴」

今回のアメリカ出張で、トランプ大統領の政策を聞くたびに、大好きな映画の『ゴッドファーザー』の表紙の「操り人形(マリオネット)」の画像イメージが何度も浮かんだのですが、1969年の原作当時と世界の図式は全く変わっていないんですね。

日本の政治家の場合も、選挙の度に新たな指導者に期待しますが、結局操ってる母体が変わらないから同じような政策に戻ってしまうという事なんでしょうね。

これが戦後世界の常なのでしょう。

それにしても深い意味を持つ図。

この図が使われている理由は、この作品の核心にある「支配」や「影で糸を引く力」を象徴しているから。

この小説での操り人形の絵は、コルレオーネ・ファミリーのドン(つまりゴッドファーザー)が、裏社会で糸を引き、他人の行動を背後から巧みにコントロールしている姿をメタファーとして示しています。特に、政治家、警察、ビジネスマンといった表の世界の人間たちもまた、彼の「糸」で操られている存在であることが、作品の構造として描かれているのです。

このモチーフは、映画版(1972年)のロゴとしても有名になりましたが、実はその出典は原作小説(1969年)の冒頭に登場する「あるセリフ」にも由来しています:
“I’ll make him an offer he can’t refuse.”
「やつには断れない申し出をする。」
これは単に交渉の手段ではなく、相手の意思すら操作してしまう「見えざる力」の象徴ともいえるフレーズです。

実は、このロゴをデザインしたのはS. Neil Fujitaという日系アメリカ人デザイナーで、彼は『イン・コールド・ブラッド』や『ゴッドファーザー』といった20世紀アメリカ文学の象徴的作品のブックデザインを多く手がけたことで知られています(※Fujita, S. N. 1969, The Godfather, G. P. Putnam’s Sons)。

『ゴッドファーザー』(The Godfather)の初版が出版された1969年当時、アメリカはベトナム戦争、ウォーターゲート事件前夜、ヒッピームーブメントなど、体制への不信が高まる時代背景にありました。このような空気の中で、「裏から支配する者」というテーマは読者の共感を呼び、操り人形のモチーフはその視覚的代弁者となりました。

操り人形のイメージは「コントロール」「依存」「権力構造」を暗示し、それ自体がメタファーとしての力を持つ記号になったのです。興味深いのは、このアイコンが小説単体を超えて、アメリカにおけるマフィア像の視覚的コードとして確立していったことです。

■ フランシス・フォード・コッポラによる映画版での再構築
1972年に公開された映画『ゴッドファーザー』では、パラマウント映画が原作小説の象徴性を最大限に活かす形でプロモーションを展開しました。映画のポスターやロゴにも、S. Neil Fujitaのデザインをもとにした操り人形のシンボルが踏襲され、さらにそれが映画のオープニングタイトルでもそのままアニメーションとして使われたことで、視覚的・聴覚的に「権力の冷たさ」を強調する効果を生み出しました。

あの表紙に描かれた操り人形は、マフィアの「影の支配者」としてのゴッドファーザーの本質を一枚で表現した、比喩的かつ象徴的なデザインなのです。

映画公開後、ロゴは「マフィア映画の象徴」としてあまりにも有名になり、今やアメリカン・ポップカルチャーの中でも指折りのブランド化されたビジュアルなんでしょうね。


「The September Issue」

今日もクリニックFの診療日です。

受付でちょうどこちらの映画が流れていました。

「The September Issue」。

ヴォーグ編集長アナ・ウィンターに密着したドキュメンタリーですが、音楽が良いのもあって患者さんがいる場でも流しやすいようですね。

クリニックFがある半蔵門はLVMHのオフィスもあったりで意外とファッション関係の方も多い地域です。

アナ・ウインターが映画「プラダを着た悪魔」に登場する、鬼編集長役のミランダ・プリーストリー(メリル・ストリープ)のモデルとなったのはご存じだと思います。

氷の女とあだ名がつくほど恐れられており、その仕事ぶりは頭の回転が速く冷静沈着・即断即決、まさに時代を切り開く勢いのある人だったそうです。

映画「プラダを着た悪魔」原作の小説は、著者のローレン・ワイズバーガー自身がまさにヴォーグで編集長アシスタントをしていた経歴があり、その体験を元に書かれたのだそうですよ。さもありなむ。


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