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【新国際学会周遊記──八月、記憶の温度】

【新国際学会周遊記──八月、記憶の温度】

八月の日本列島には、独特の湿度がある。
立秋を過ぎてもなお、熱気は衰えず、セミの声が陽炎のように揺れ、夕暮れは朱に染まりながらもどこか湿っている。

この季節になると、テレビや新聞は毎年同じ出来事を映し出す──いずれも命の重さに直結する日付ばかりだ。

6日、広島。9日、長崎。15日、終戦。

原爆は広島で約14万人、長崎で約7万人の命を奪った。ミッドウェイ以降、勝ち目のなかった日本に対して行われたのは終戦条約ではなく、日本人の殲滅を目的とした民間人虐殺であった。

世界史を学べば気づくことがある。

世界の常識は「和をもって尊しとなす」日本文化とは大きく異なり、宗教が異なれば他民族の殲滅すら“神の意思”とされることもある。

かつて大東亜共栄圏が掲げた「白人支配からのアジア解放」という理念は、勝者の作り上げた戦後教育の中で歪められ、埋もれてしまったが、80年を経た今こそ、その真意の一端だけでも理解が深まればと願う。

真夏の強烈な日差しの下で流れるモノクロ映像は、季節と感情の温度差を鮮烈に浮かび上がらせる。

 

 

そして12日──1985年、日本航空123便が群馬県御巣鷹の尾根に墜落した日。

乗客乗員524名中520名が死亡、単独機事故としては世界最多の犠牲者数である。原因は過去の尻もち事故で損傷した後部圧力隔壁の不完全修理とされ、破壊により全油圧を喪失し、操縦不能のまま32分間飛行を続け、夏山に突き刺さるように終焉を迎えた。だが、その背景にはいまだ多くの議論があり、戦後日本の闇の一端とも言われる。

お盆の帰省ラッシュと重なるこの日付は、戦争とは異なる形で「突然の日常の終わり」を私たちに突きつけた。

心理学の報告によれば、事故や災害の記憶は、季節や天候と結びつくことで忘れにくくなる。

夏の青空と蝉時雨──その明るさが、悲劇の輪郭を一層くっきりと際立たせる。

かつて、自身で操縦するヘリコプターから御巣鷹の稜線を見下ろしたことがある。

雲の切れ間から射す光は穏やかで、山並みは青く静かだった。

あの光景と、事故報道で聞いたボイスレコーダーの声とが、どうしても頭の中で結びつかない。

夜中であっても火災が発生したはずだし、墜落地の同定が遅れ救助が遅れたというのも納得がいかない。歴史的事件は、ときにその場所の美しさとあまりに不釣り合いだ。

八月の日本は、光と影が最も濃く交錯する季節だ。

祭りの賑わい、甲子園の歓声、真っ青な空──そのすぐ隣で、黙祷する人々、墓参りの線香、鎮魂の花束がある。

気象庁の統計によれば、8月の平均湿度は75〜80%。高湿度は心理的にも気分の沈み込みと関連することが知られている。そこに歴史的な命日が集中するのだから、感情の振れ幅は必然的に大きくなる。

そして、蝉の声はすべてを覆い隠すように響き続ける。

この時期、私たちは否応なく“記憶の温度”を感じる。

それは夏の暑さではなく、時の積もらせた熱──忘れられない出来事が、毎年八月になると、静かに、しかし確かに甦るのである。


【新国際学会周遊記──坂の上のショパン】

【新国際学会周遊記──坂の上のショパン】

今日は楽しみにしていた太平洋御殿場でのゴルフが、朝からの雨であえなく中止に。
連休は山荘に籠り、しんと静まった空気の中でピアノを聴きワインを飲みながら1人で過ごしています。

こんな時聴きたくなるのは、昔から好きな曲──ショパン《バラード第1番 ト短調 Op.23》。

https://www.facebook.com/1486146253/videos/pcb.10239481023312172/732290906388463

ショパンの幻想即興曲まではなんとか弾けるようなりましたが、この曲を自分の手で弾けるようになることは、僕にとって人生の目標のひとつです。

まさに「坂の上の雲」のような存在で、かねてから胸の奥に置いてきた、僕の音楽人生の象徴のような一曲。

昨年、スタインウェイのスピリオrで、この曲の生演奏をいつでも聴ける環境を手に入れたときの衝撃は、今も鮮明に覚えています。

鍵盤に触れずとも、そこに音楽家がいるかのように再現されるショパン。

しかし、聴くたびに思うのです──やはり自分の手で紡ぎたい、と。

この曲は、ただのピアノ曲ではありません。

冒頭の静謐な和音から、突如として襲いかかる激情。

甘美な旋律が流れたかと思えば、嵐のような和音がすべてをさらっていく。

静けさと嵐、希望と挫折、そして予期せぬ結末。

まるで人生そのものです。

科学者としての僕は、解析や再構築には慣れています。

けれど、この譜面を前にすると、分析の目は無力です。

音は数値で測れず、感情は実験で再現できない。

譜面上の黒い点を命ある音に変えるには、指先の技術だけでなく、積み重ねた人生そのものが必要になるのです。

かつて欧州の旅先で、石畳を踏みしめながら歩いていると、路地の奥からピアノの音が漂ってきたことがありました。

音に誘われて入った小さなサロンは、柔らかなランプの光に包まれ、中央には深い艶をたたえたスタインウェイが佇んでいました。

演奏が始まり、最初の一音が放たれた瞬間、耳だけでなく胸の奥まで響きが染み込む。

この心地よさには、理由があります。

ピアノは基音とその整数倍の倍音を同時に響かせ、人間の聴覚にとって極めて安定した関係を作ります。

低音の振動は体の深部感覚を揺らし、高音のきらめきは耳の奥で微細な感覚毛を震わせる。

広い音域の刺激が脳を多層的に活性化させ、さらに音域は人の声域と重なって、親しみと安心感を呼び起こします。

旋律が進むにつれ、副交感神経が優位となり、呼吸や心拍が穏やかになっていくのです。

やがてショパンのバラード第1番が静かに始まりました。

旋律が空間を漂うたび、倍音は壁や天井で反射し、耳と皮膚と骨を通じて僕を包み込みます。

脳の聴覚野と報酬系が同時に輝き、音楽が「美しい」と感じられる瞬間が訪れる。

その感覚は、坂の上の雲のように手の届かない場所にありながら、確かに僕を導いてくれるものでした。

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https://www.facebook.com/1486146253/videos/pcb.10239481023312172/1297509668658464

《バラード第1番》はおおまかに、序奏、第一主題、第二主題、展開、再現、そして怒涛のコーダという構造を持っている。

だが、譜面上の区切りよりも重要なのは、感情の流れの曲線だ。

音楽は単に右肩上がりで盛り上がるのではなく、突然谷間に落ちたり、思わぬ場所で光が射し込んだりする。

この予測不能な曲線こそ、聴く人の心を掴んで離さない理由のひとつだろう。

冒頭の序奏は、まるで物語の扉を開く合図だ。

ト短調の静謐な和音がゆっくりと空間を満たし、次の一歩をためらうような間が訪れる。

ここで僕は、音を「置く」ことを意識する。

叩くのでも、流すのでもなく、まるで石庭の砂にそっと白い石を置くように。

その瞬間の空気の震えは、ホールであれ山荘の部屋であれ、必ず聴く人の中に残るはずだ。

第一主題は物語の主人公の登場だ。

優雅さと哀愁を併せ持ち、右手の旋律が歌い出す。

ここで重要なのは、フレーズの最後を急がないこと。

息継ぎをするように、わずかに時間を置くことで、次のフレーズがより意味を持つ。

僕はこれを「言葉にする音」と呼んでいる。

そして第二主題が現れると、曲の景色は一変する。

光が差し込み、雲が流れ、川面がきらめくような明るさ。

ここでの課題は、左手の伴奏の粒を揃えることだ。

乱れると水面が波立ち、旋律の輝きが曇ってしまう。

僕はこの部分を練習するとき、メトロノームを少し遅めに設定し、左手だけで何度も繰り返す。

展開部は、この曲の中で最も激しい嵐が訪れる場所だ。

和音が波のように押し寄せ、アルペジオが風のように吹き荒れる。

ここでは正確さよりも「嵐のエネルギー」を優先する。

完全にコントロールしようとすると、音楽が小さくまとまってしまうからだ。

あえて少し前のめりに、感情が鍵盤からあふれ出すように弾く──それがこの曲の生命線になる。

やがて再現部で第一主題が戻ってくる。

しかし、序奏の頃とはもう違う。

嵐を経て、主人公は傷つき、何かを悟ったような深みを帯びている。

同じメロディでも、音色は変わり、響きには陰影が増す。

音楽が「時間を経た」ということを、ここで聴き手に感じさせたい。

そして最後のコーダ──まさに崖から飛び降りる瞬間だ。

超高速のパッセージと力強い和音の連打が続き、最後の和音が鳴り終わると、そこには静寂が訪れる。

僕はこの静寂こそ、この曲のゴールだと思っている。

聴き手も演奏者も、その余韻の中で、登ってきた坂と見上げてきた雲を振り返るのだ。

山荘の窓の外は、まだ警戒級の豪風雨が降り続いている。

最初の和音をゆっくりと押さえると、壁がわずかに共鳴し、心の奥で何かが動き出す。

その響きは、まだ完成から遠い。

でも、ショパンのバラードを開いた僕の心の中では、すでにその雲は近づきつつある。

坂の上に浮かぶ雲へ──今日もまた、一音ずつ、手を伸ばしていく。


【新国際学会周遊記──「バッハとレーガー、二つの無伴奏チェロ組曲第3番」】

【新国際学会周遊記──「バッハとレーガー、二つの無伴奏チェロ組曲第3番」】

本日はゴルフ医科学研究所でのチェロとワインの企画。
チェリスト金子鈴太郎さんを迎えての新企画第三弾でした。
バッハとレーガーの無伴奏チェロ組曲第3番の演奏会。曲目と合わせたワインはこちら。

【曲目】
バッハ:無伴奏チェロ組曲 第3番 ハ長調 BWV1009
Johann Sebastian Bach: Suite for Solo Cello in C Major, BWV1009
I. Prélude
II. Allemande
III. Courante
IV. Sarabande
V. Burrée I & II
VI. Gigue

【ワイン】
コンドリュー ヴェルノン/シャンベイロン
2023 Condrieu Vernon/Chambeyron

【曲目】
レーガー:無伴奏チェロ組曲 イ短調 Op.131c, No.3
Max Reger: No. 3 Suite for Solo Cello in A minor, Op.131c, No. 3
I. Präludium: Sostenuto
II. Scherzo: Vivace
III. Andante con variazioni

【ワイン】
コート・ロティ グランド・プラス/ピシャ
2022 Cote Rotie Grandes Places/Pichat
ワインを片手に目の前で生演奏を楽しめる機会はほとんどありません。まさに貴族の様な体験ですよね。

—-閑話休題—-

チェロは「人が語る楽器」と言われている。
チェロの音域はおよそ C2(65Hz)〜C6(1046Hz)。
男性バスの低音から女性ソプラノの高音まで、人間の声域をほぼカバーしているのは弦楽器の中でもチェロだけ。倍音構造も人声に近く、耳への届き方が極めて自然だ。
音域の重なり:バス〜テノール〜アルト〜ソプラノを網羅
倍音の柔らかさ:声道共鳴に似たフォルマント配置
ニュアンスの近似:ボウイングによる音量・音色変化は声帯の張力と類似
そのためチェロは、「歌う」ことができる弦楽器として作曲家に愛され、聴き手には語りかけられているような親密さを与える。

1. 作曲背景
バッハ(1685–1750)
無伴奏チェロ組曲 BWV1007〜1012は1720年頃に作曲。舞曲組曲形式、明快な調性構造、バロック期の対位法美学を反映。第3番(ハ長調)は明るく開放的。
レーガー(1873–1916)
無伴奏チェロ組曲 Op.131c は1914年作曲。第一次世界大戦開戦年のドイツ、ブラームスやバッハの伝統を継ぎながら後期ロマン派の和声と濃密な対位法を融合。第3番(イ短調)はより重厚で内省的。

2. 音域と人声性
どちらもチェロの音域(C2〜C6)をフル活用し、人間の声域に近い響きを持つが、アプローチが異なる。
バッハ:音域を分散和音や分解音型で広く行き来し、声部感を明瞭に保つ。
レーガー:厚い和声と頻繁な転調で、音域の広がりが一層劇的に感じられる。

3. 構造と数学的特徴
バッハ第3番(BWV1009)
舞曲組曲形式(前奏曲+5楽章)、二部形式の対称性、モチーフ変形の群論的構造、黄金比的配置など数学的秩序が強い。
レーガー第3番(Op.131c-3)
全3楽章(Allegro – Adagio – Fugue)のソナタ的構造。フーガは明確な主題展開と変奏で、バッハの対位法をロマン派の和声拡張で包んだもの。転調はトーラス構造よりも、むしろ高次元空間的な多軸移動に近い。

4. 調性とトポロジー
バッハ:ハ長調の明快なトニック感。調性円環上での対称性が明確。
レーガー:イ短調だが短三度・半音階的転調が多く、円環上を複雑に行き来するため、位相幾何学的には「結び目」のような経路を描く。

5. 表現の違い
バッハ:秩序と明晰さ。旋律は「神への言葉」、構造は「数学的証明」。
レーガー:情緒と濃密さ。旋律は「内面の独白」、構造は「多層的迷宮」。

6. 共通点
チェロという「人声に最も近い楽器」を使い、一本の旋律線で多声的世界を描こうとした。
対位法と音域活用の技法は、時代を越えて共鳴している。


【新国際学会周遊記──AIはほめて伸びる?】

【新国際学会周遊記──AIはほめて伸びる?】

連休初日。世間は旅行やレジャーに心が向かう中、本日もクリニックFは通常診療です。

診察の合間に、最近出版したAIの本のせいか、患者さんからAIに関する質問を受けることが増えました。
今日の質問はちょっと面白いものでした。

「先生、AIってほめてあげると成長するって本当ですか?」

聞けば、その方は最近AIを使い始め、実験的に同じAIに対して片方ではほめ言葉ばかり、もう片方では批判ばかりを与え続けたそうです。すると、確かに回答の雰囲気がガラッと変わったというのです。なるほど、これは面白い観察です。

しかし、真相は少し違います。

AIの仕組みは、直前の文章や会話履歴から「最もふさわしい次の言葉」を予測して並べていくもの。基本は膨大な学習データと開発時の微調整(ファインチューニング)によって動いており、リアルタイムに「学習して賢くなる」わけではありません。
たとえば、プロフィール欄に「東京大学法学部卒」とあれば、その後に「大蔵省入省後…」といった架空の経歴を平然と付け足すことがあります。これは、過去に多くの似た文脈がそう続いていたからです。AIはそうした統計的傾向を忠実に再現しているだけなのです。
とはいえ、会話のセッション内では少し事情が変わります。
ほめ言葉やポジティブなフィードバックを与えると、AIは「この人はこういう雰囲気を好む」と推測し、以降の返答をやわらかく、フレンドリーな方向へ寄せていきます。これは“成長”ではなく、あくまで会話中の即時的な文脈補正です。

◆まとめると──

リアルタイム成長はしない
 会話中に性能そのものが向上することはなく、安全性のため制限されています。

ほめると会話はスムーズになる
 AIが「この調子が望ましい」と判断し、文体や温度感を変えるからです。

開発段階では効果的
 研究者が学習データとしてポジティブな応答例を多く与えると、確かにAIの傾向は変わります。

つまり、「ほめると伸びる」の正体は、人間のような成長ではなく、心理的適応とスタイル調整の結果なのです。
それでも、会話が心地よくなるなら、少しほめてみるのも悪くありませんね。


【新国際学会周遊記──「人間500年寿命計画」試論】

【新国際学会周遊記──「人間500年寿命計画」試論】

つい今週のこと。僕の著作を出版してくださった出版社の社長と会食を共にしました。

かつて週刊『女性自身』を140万部まで牽引した伝説の男性編集長であり、業界の知る人ぞ知る名士。

その方が、なんと現在94歳。矍鑠としていて、聞き上手。

ユーモアにも富んでいて、会話が次々と展開される──こちらがむしろ圧倒されるほどの勢いでした。

その中でふと、こうおっしゃったのです。

「私はね、500歳まで生きようと思っているんですよ。」

このひと言に、僕は深く感銘を受けました。

500歳といえば、信長や秀吉はおろか、レオナルド・ダ・ヴィンチとも言葉を交わせたかもしれない時間軸です。

もはや歴史上の人物というより、時空を超える知的冒険者のような生き様。

しかし、これはただの夢物語なのでしょうか?

◆ 第1章:寿命の限界はどこにあるのか?

人間の寿命は、以下の3層構造によって制限されていると考えられています。

1. 機械的レベル:
細胞や臓器の摩耗、DNA損傷、酸化ストレス、ミトコンドリア劣化など。

2. 遺伝子プログラム:
テロメア短縮や、サーチュイン・mTOR・FOXOといった寿命関連遺伝子の制御。

3. 情報制御レベル:
視床下部やホルモン系に蓄積されるエピジェネティック変化、神経系の老化。
この3層すべてを突破することで、はじめて500年というスケールが現実味を帯びてくるのです。

◆ 第2章:平均寿命は延びても、最大寿命は止まっている

この100年で、抗生物質、上下水道、産科医療、栄養学の進歩により、平均寿命は劇的に向上しました。
ところが、最大寿命──つまり「生物としての限界」は、いまだジャンヌ・カルマンさんの122歳を超えられていません。
これは「病気を克服しても、老化だけで死ぬ」という新たな壁に突き当たっている証拠です。

◆ 第3章:500年寿命に向けた5つの鍵

① 【細胞レベル】DNA修復とミトコンドリアの再生
•NAD+補充(NMNなど)やサーチュイン活性化による老化速度の制御。
•ミトコンドリアの置換療法や細胞エネルギーの最適化も研究が進む。

② 【エピジェネティクス】時間の巻き戻し
•山中因子(OSKM)を用いたpartial reprogrammingで、老化細胞の若返りが実現しつつある。

③ 【人工臓器・再生医療】摩耗した部品を交換
•iPS細胞から心臓、腎臓、皮膚、骨格、視力までも再生可能な未来。
•定期的な「臓器アップグレード」がライフプランに組み込まれるかもしれない。

④ 【意識と脳のデジタル化】身体を超えた存在へ
•記憶のバックアップや、脳波データのクラウド移行。
•マインド・アップロードによる「脱生物的寿命」の追求。

⑤ 【医療ナノマシン】体内に常駐する修復隊
•自己複製型ナノロボットによる常時スキャン・常時修復。
•特に神経変性疾患へのターゲティングが期待される。

◆ 第4章:進化と倫理──超寿命が生む新たな問い

たとえ技術的に可能でも、以下の問題が必ずついて回ります:

•資源の枯渇と人口問題
•世代交代の停止と社会の硬直化
•死の意味と「生の価値」の希薄化

人間の進化は「繁殖」に基づいて選択されてきました。500歳の個体が進化上有利かどうか──これは極めて複雑な問いです。

◆ 結語:科学は「生の拡張」を志向する

「死とは何か」を問う前に、「生とはどこまで拡張できるのか」を追い求めるのが科学の使命なのかもしれません。

いま、最も現実的な未来像はこうです:
部分的初期化 × 再生医療 × 分子的介入
この三位一体で、150歳 → 200歳 → 300歳…と段階的にステップアップしていくこと。

そして、いずれは生体維持が難しくなっても、「思考」だけはクラウドに残り、過去の賢人と対話できる未来が来るかもしれません。

文章を読むのではなく、直接“考え方”を学べる時代──
まさに知性のルネサンスが、技術によって再来するのです。


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