晴れ男か雨女か——それは、運の話ではありません
僕は、自分は晴れ男だと思っています。
それは、空を操れるという意味ではありません。
「自分は運がいい側の人間だ」という初期設定を、ずっと手放さずにいる、というだけの話です。
晴れ男と雨女の違いは、起きている出来事の差ではありません。
同じ雨に降られても、それをどう記憶し、どう物語にするか。その編集の仕方が違うだけです。
晴れた日はしっかり覚え、外れた日は軽く流す。そうやって人生のアルバムは、少しずつ青空寄りになっていきます。
ただし、思い返してみるとこれは大人になって突然身につく考え方ではありません。
「運がいいと思える力」は、こどもの頃からのトレーニングだと思っています。
嫌な思いをした経験、理不尽だった記憶、うまくいかなかった出来事。
そのたびに、「自分はついてない」と結論づけたのか
「まあ致命傷ではない」と一度棚に上げたのか。
その分岐点が、何度も何度も積み重なって、思考の癖になります。
運がいいと思っている人は、傷つかなかった人ではありません。
むしろ、ちゃんと嫌な思いもしています。
ただ、その出来事を致命傷にしないしまい方を、早い段階で覚えただけです。
ちなみに僕も3月生まれで身体も小さかったので、いじめなどの洗礼は人並み以上に受けました。
その上で、出来事をどうしまうか、自分に何と言って次に進むかを、長い時間をかけて練習してきたのだと思います。
適度なストレスと、それに対する自己対応のトレーニングは必要なんですよね。
ハラスメントはいけませんが、全てダメだと国家が決めてしまうと、対応方法を考えず、消費者意識だけが強い他力本願の人材しか輩出できなくなる。
晴れ男であることの正体は、とても地味です。
天気予報を無視する勇気でも、根拠のない楽観でもありません。
ただ、「自分は運がいいと思っている」という姿勢を、何度も更新し直してきた結果にすぎません。
結局、晴れ男か雨女かを分ける最後の一行は、いつもここに戻ってきます。
——運がいいと思っているかどうか。
それだけで、人生の天気図は、案外しっかり変わっていきます。
結局のところ、運がいいと思っている人でないと、成功しないのだと思います。
これは根性論でも精神論でもなく、もっと構造的な話です。
成功する人を見ていると、「自分はうまくいく側にいる」という前提を、ほとんど疑っていません。
失敗しても、「今回は違っただけ」「まだ途中です」と処理して、歩幅を変えずに進み続けます。
この立ち直りの速さが、行動量を落とさない最大の理由です。
そして大事なのは、この考え方は大人になってから急に身につくものではない、という点です。
「運がいいと思えるかどうか」は、かなりの部分が子どもの頃からのトレーニングです。
嫌なことがあったとき、「だから自分はダメなんだ」と結論づけたのか、「まあ、こういう日もあります」と一度保留にできたのか。
この小さな分岐が、何度も何度も積み重なって、思考の初期設定になります。
だから、子どもに教えるべきことがあるとしたら、テストの点や肩書きよりも、先にこれかもしれません。
「人生は、思っているより自分の味方です」
そう考えていい、という感覚です。
運がいいと思っている人は、世界を甘く見ているわけではありません。
世界を信頼したまま、何度でも踏み出せる人です。
そしてその姿勢が、あとから「成功」と呼ばれる場所に、静かに連れていきます。
晴れ男か雨女か。
その違いは運命ではありません。
どこかの時点で身につけた、考え方の初期設定にすぎないのです。



写真は僕の携帯から探した運が上がりそうな写真です。実際どうなんでしょうね。
