新国際学会周遊記──常識を疑う旅
「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである。」──アルベルト・アインシュタイン
世界を旅しながら国際学会に参加していると、必ずといってよいほど出会うのが「常識の逆転劇」です。
昨日まで絶対だと信じられていた医療の常識が、今日の発表で鮮やかに覆される。その瞬間、会場に走るどよめきと静かな衝撃──歴史の歯車が確実に回る音を耳にしたような気がします。もちろん、理論が臨床の常識へと根付くまでには平均して20年近い歳月を要するのですが。

◆胃潰瘍とピロリ菌──ストレス説から細菌説へ
1980年代の国際消化器学会。ウォレンとマーシャルが「胃潰瘍の原因はピロリ菌である」と発表した瞬間、会場は半信半疑に揺れました。当時の常識は「ストレスと胃酸」。その土台を突き崩す証拠として、マーシャル自身が菌を飲んで胃炎を発症させた逸話は、今も語り継がれています。
◆心筋梗塞患者は「寝かせる」べきか
僕が研修医だった頃、シニアの先生方は口をそろえて「梗塞患者は絶対安静」と言っていました。ところが米国から届いた研究は、むしろ早期離床・リハビリが予後を改善すると報告。学会では「歩かせるなんて危険だ」と怒号も飛んだそうですが、今ではそれが標準治療です。
◆発熱は敵か味方か
「熱は体力を奪うから下げるべき」──かつてはそんな指導が一般的でした。1990年代の学会で、発熱自体が免疫反応の一部であると示された報告が登場。この常識を知らなかった医師が、コロナなどの感染症で解熱剤を濫発させて初期被害を増やしましたね。
◆急性炎症の手術──待つべきか、それともすぐに
昔は虫垂炎や胆嚢炎の手術は「炎症が落ち着いてから」が常識でした。近年の外科学会で示されたデータは、早期手術の方が合併症も少なく入院期間も短いことを明らかにしています。臨床現場の感覚とエビデンスがぶつかる、その摩擦こそが進歩の源泉です。
◆脳神経は再生しない?
「神経細胞は一度失われたら再生しない」──僕が学生時代に教わった常識でした。しかし海馬において新しい神経細胞が生成されることが発表され、神経可塑性研究が一気に開花しました。
◆胎児・新生児は痛みを感じない?
20世紀中頃までは「胎児や新生児は痛みを認識しない」とされ、手術でも十分な鎮痛が行われませんでした。1987年のNEJM論文がその誤解を覆し、周産期医療を大きく変えました。
◆常識を超えるキャリア
医学の常識が書き換えられるように、キャリアの常識も変わりました。20世紀は「一つの専門を極める」時代。しかし21世紀のAI時代は、複数領域を横断し、新しい知を編む力が求められています。
医学では臨床試験、工学では数式と実験、薬科学では分子の挙動、経営管理学では数多のケーススタディ。それぞれの分野で「立証」の作法は異なります。僕がその異なる学問を修めることで方法論を渡り歩いてきたのは、常識を越えて新たな価値観を見出すための旅路そのものだったように思います。
◆結び──常識を疑う勇気
常識とは社会が生き延びるための知恵にすぎない。だがそれに安住すれば挑戦を忘れてしまう。昨日の非常識が、今日の常識となる。偏見の殻を突き破る勇気こそが、悔いなき人生を形づくる。
だから僕もまた、この旅の果てまで「常識」を疑い続けたいと思うのです。
